ショートメッセージ【イザヤ⑥】

イザヤ書49-55章
(神の“しもべ”がもたらす祝福のすばらしさを語るイザヤ)

1、神のしもべによる驚くべき解決方法(49-53章)
2、神さまからのアプローチ(54-55章)

 ここから、イスラエルの民が果たせなかった役割を、代わりに果たす1人の”しもべ”を見ていきます。イザヤ書42章1~9節に登場した“主のしもべ”は、この地上に“公義”をもたらします。それは、神さまの御言葉を回復することによってです。そしてここに記されている“主のしもべ”は、イスラエルの回復と異邦人の救いをもたらす“しもべ”なのです。

1、神のしもべによる驚くべき解決方法(49-53章)
 イザヤ書49章3節を読みます。

49:3 また、わたしに言われた、「あなたはわがしもべ、わが栄光をあらわすべきイスラエルである」と。

 ここで“しもべ”は、イスラエルと言われていますが、49章5-6節を見てみます。

49:5 ヤコブをおのれに帰らせ、イスラエルをおのれのもとに集めるために、わたしを腹の中からつくって/そのしもべとされた主は言われる。(わたしは主の前に尊ばれ、わが神はわが力となられた)
49:6 主は言われる、「あなたがわがしもべとなって、ヤコブのもろもろの部族をおこし、イスラエルのうちの残った者を帰らせることは、いとも軽い事である。わたしはあなたを、もろもろの国びとの光となして、わが救を地の果にまでいたらせよう」と。

 この5-6節では、“しもべ”の働きがイスラエルの回復のためと言われていますので、この“しもべ”はイスラエルの民全体をさすのではないことは明らかです。

 つまり、民のイスラエルとして果たせない使命をイスラエルの民の代わりに、民の代表として果たす“しもべ”が語られています。この“しもべ”は、イスラエルの民を主のもとに帰らせ、異邦人にとっての光となって、神さまの救いを地の果てにまでもたらす“しもべ”なのです。

 この“しもべ”が、メシヤなるイエス・キリストであり、イザヤ書のここまでの箇所でもそのことが預言として暗示され、新約聖書によってそのことが証明されていました。
 そして、49章のこの後の箇所で神さまは、人々のむなしい考えをことごとく退けて、ご自身の贖いの計画の実現を約束されます。
 50章5-7節を読みます。

50:5 主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは、そむくことをせず、退くことをしなかった。
50:6 わたしを打つ者に、わたしの背をまかせ、わたしのひげを抜く者に、わたしのほおをまかせ、恥とつばきとを避けるために、顔をかくさなかった。
50:7 しかし主なる神はわたしを助けられる。それゆえ、わたしは恥じることがなかった。それゆえ、わたしは顔を火打石のようにした。わたしは決してはずかしめられないことを知る。

 これは、“しもべ”であるわたしの言葉であり、どのようにして、贖いが成されるかが語られています。この“しもべ”の様子は、ピリピ人への手紙2章6-11節のイエス様の姿を連想させるものです。
 新約聖書 ピリピ人への手紙2章6-11節

2:6 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、
2:7 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、
2:8 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。
2:9 それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。
2:10 それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、
2:11 また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。

 そしてイザヤ書52章13節~53章12節にかけて贖いのために、“しもべ”が成すことについて詳細に述べられていきます。
 52章15節を読みます。

52:15 彼は多くの国民を驚かす。王たちは彼のゆえに口をつむぐ。それは彼らがまだ伝えられなかったことを見、まだ聞かなかったことを悟るからだ。

 ここで《驚かす》と訳されている動詞は、いけにえの動物の血を注ぐ。振りかける。と言う意味で、聖書の中で用いられていることばです(レビ記16章14-15節、19節など)。ここでは、“主のしもべ”も、多くの国民の罪を聖めるために、血を注ぐと言われています。
 53章3-7節を読みます。

53:3 彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
53:4 まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。
53:6 われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。
53:7 彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。

 そして“しもべ”は、人々から疎外され(2節)、イスラエルの民たちが神さまに背を向け、自分勝手に歩んでいた罪(6節)をその身に引き受けて代わりに打たれ苦しみを味わい、傷ついて砕かれることが言われています(4-5節)。そして、抵抗せず、口も開かず、最後まで従順にその苦しみに従っていかれるのです(7節)。

 イザヤ53章5節前半ですが、新改訳2017では、《しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。》訳されており、イエス・キリストの十字架の場面をまさに表現しています。

 このように人間では考えの及ばない驚く方法で、最善の解決方法によって、不信の心を持った民を根本的に造り変える唯一の方法であることが示されています。
 そして、この神さまの“しもべ”は、背信の民を信仰の民として勝ち取ることが告げられています。

 今の私たちも、このキリストのあがないによって、完全に神さまを信じる信仰の民としてイエス様が勝ち取ってくださった1人であることを覚えて、確信をもってこの世の勝利者として歩むように導かれています。

2、神さまからのアプローチ(54-55章)
 イザヤ書54章4-10節を読みます。

54:4 恐れてはならない。あなたは恥じることがない。あわてふためいてはならない。あなたは、はずかしめられることがない。あなたは若い時の恥を忘れ、寡婦であった時のはずかしめを、再び思い出すことがない。
54:5 あなたを造られた者はあなたの夫であって、その名は万軍の主。あなたをあがなわれる者は、イスラエルの聖者であって、全地の神ととなえられる。
54:6 捨てられて心悲しむ妻、また若い時にとついで出された妻を招くように/主はあなたを招かれた」と/あなたの神は言われる。
54:7 「わたしはしばしあなたを捨てたけれども、大いなるあわれみをもってあなたを集める。
54:8 あふれる憤りをもって、しばしわが顔を隠したけれども、とこしえのいつくしみをもって、あなたをあわれむ」と/あなたをあがなわれる主は言われる。
54:9 「このことはわたしにはノアの時のようだ。わたしはノアの洪水を、再び地にあふれさせないと誓ったが、そのように、わたしは再びあなたを怒らない、再びあなたを責めないと誓った。
54:10 山は移り、丘は動いても、わがいつくしみはあなたから移ることなく、平安を与えるわが契約は動くことがない」と/あなたをあわれまれる主は言われる。

 神さまは、民たちに過去の不信仰な時代の恥を思い起こさなくてもいい。と言われています。今までは突き放していたが、神さまの“しもべ”メシヤによるあがないの出来事によって、状況は一変し、若い時に妻として迎え入れていたあなたがたを2度と見放すことはしないと言われています。それは、7-8節に書かれている神さまの《大いなるあわれみ》《とこしえのいつくしみ》の故にということです。

 民が悔い改めて神さまに立ち帰ったのではなく、かといって民の背きの罪を神さまが忘れてしまわれたのでもない。

 そんな中で、神さまがしてくださった神さまの“しもべ”によるあがないのみわざによって、神さまの聖なる憤りを、神さまの“しもべ”であるメシヤの上に振りおろすことで処理され、ただ神さまの憐れみによって、再び夫の元に帰ることを赦された妻のようにあなたを迎えようと言われているのです。

 さらに、ノアの洪水の時のように、再びそのような悲惨なことは起さないと宣言されておられます。二度とあなたを怒ったり責めたりすることはない。メシヤによる贖いによって、あなたは根底から変わったことを保証し確かに契約が守られることが語られています。

 神さまは徹底して私たちに、その愛を惜しみなく注いで下さっていることがよくわかります。
 55章7-13節を読みます。

55:7 悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。そうすれば、主は彼にあわれみを施される。われわれの神に帰れ、主は豊かにゆるしを与えられる。
55:8 わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると/主は言われる。
55:9 天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。
55:10 天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者にかてを与える。
55:11 このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す。
55:12 あなたがたは喜びをもって出てきて、安らかに導かれて行く。山と丘とはあなたの前に声を放って喜び歌い、野にある木はみな手を打つ。
55:13 いとすぎは、いばらに代って生え、ミルトスの木は、おどろに代って生える。これは主の記念となり、また、とこしえのしるしとなって、絶えることはない」。

 神さまは、ご自身のもとに来て赦しを受けるように招いておられます(7節)。神さまは《大いなるあわれみ》《とこしえのいつくしみ》のある、お方だからです。

 そして、神さまの御思い、ご計画は私たちの思いをはるかに超えて私たちには想像もつかないような素晴らしいものであるから、自分の思いではなく、自分の思いを手放して、神さまに全てを委ねるようにと導かれています。これは信じた者が、日々歩む歩みの中でとても大切なことです。

 そこで12-13節に、その御言葉の持つ力がどれほどすごいものであるかが語られています。

 神さまの御言葉は、必ず力を持ってものごとを果されると信じ続けることが大切なのです。そして 神さまのお心のままに、ものごとが進んで行くと信じ続けるならば、神さまが共にいてくださることによって、神さまにある平安と安息が与えられて心が潤され安らいで、喜びを持って歩むことができると約束されています。

 その時には、あなたが進む先の険しい山や丘が妨げとなって立ちはだかることなく、喜びの歓声を挙げて迎えてくれ、野の木々も手を打って歓迎してくれると言います。
 《いばら》の代わりに《いとすぎ》が、《おどろ》(草木の乱れ茂った所)の代わりに《ミルトス》(地中海沿岸原産の常緑低木)が生えるように呪いに見えていたものが、祝福に代えられていくのです。

 神さまの理想の“しもべ”、メシヤであるイエス・キリストによる贖いが私たちにもたらす祝福がどれほど素晴らしいものであるかが語られているのです。

2023年9月24日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:香川尚徳


(ミルトス)

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