ショートメッセージ【エレミヤ⑥】

エレミヤ書46-52章
(民に語り続けたエレミヤ)

1、近隣諸国への裁きと希望(46-49章)
2、バビロンへの裁き(50-51章)
3、エルサレム陥落と捕囚~その後の希望(52章)

 今回学ぶ46-49章は、近隣諸国への裁きと希望が語られています。また50-51章は、神さまの道具となったバビロンへの裁きです。そして52章では、エルサレム陥落と捕囚について、列王紀下25章1-12節の出来事が記され、エレミヤが預言してきたことの成就が明らかにされています。

1、近隣諸国への裁きと希望(46-49章)
 エレミヤ書46章2節を読みます。

46:2 エジプトの事、すなわちユフラテ川のほとりにあるカルケミシの近くにいるエジプトの王パロ・ネコの軍勢の事について。これはユダの王ヨシヤの子エホヤキムの四年に、バビロンの王ネブカデレザルが撃ち破ったものである。その言葉は次のとおりである、

 46章は、エジプトに対する神さまの裁きの預言です。その成就は、エホヤキム王の4年、この年バビロン軍がエジプト軍を敗退させます。この歴史的勝利によって中東の支配権はバビロンに移ります。この際、エルサレムから人質としてユダの王族と貴族がバビロンへ連れて行かれます。その中にダニエルもいました。
 エレミヤ書46章25節を読みます。

46:25 万軍の主、イスラエルの神は言われた、「見よ、わたしはテーベのアモンと、パロと、エジプトとその神々とその王たち、すなわちパロと彼を頼む者とを罰する。

 25節からは、エジプトに対するさばきだけではなく、人の知恵でエジプトに頼ったユダの民たちへの裁きも含まれていることが分かります。
 エレミヤ書46章28節を読みます。

46:28 主は言われる、わたしのしもべヤコブよ、恐れることはない、わたしが共にいるからだ。わたしはあなたを追いやった国々を/ことごとく滅ぼし尽す。しかしあなたを滅ぼし尽すことはしない。わたしは正しい道に従って、あなたを懲らしめる、決して罰しないではおかない」。

 しかし神さまは、ユダの民にどこまでもあわれみ深く、懲らしめられますが、滅ぼすことはしないと約束されています。神さまは、神にある民を必ず残されるのです。

 47章以降、同様に神さまによる近隣諸国に対する裁きの預言が記されていきます。
 47章ではペリシテに対して、48章はモアブ、49章1-6節でアンモン、49章7-22節でエドム、49章23-27節でダマスコ、49章28-33節でケダルとハゾル、49章34-39節でエラムについての裁きの預言が記されています。
 エレミヤ書47章6-7節を読みます。

47:6 主のつるぎよ、おまえはいつになれば静かになるのか。おまえのさやに帰り、休んで静かにしておれ。
47:7 主がこれに命を下されたのだ、どうして静かにしておれようか。アシケロンと海岸の地を攻めることを/定められたのだ」。

 主なる神さまが、つるぎに命じています。主なる神さまが王の王であり、その後の計画と御心のままに国が滅び、歴史が造られていることが、よくあらわされています。

 歴史は、主なる真の神さまのご計画そのものであり、私たちが恐れるべきは、覇権主義に走る大国ではなく、まことの神さまであることが示されています。

2、バビロンへの裁き(50-51章)
 エレミヤ書50章24節を読みます。

50:24 バビロンよ、わたしは、おまえを捕えるためにわなをかけたが、おまえはそれにかかった。そしておまえはそれを知らなかった。おまえは主に敵したので、尋ね出され、捕えられた。

 神さまの道具として、神の民イスラエルへの裁きにも用いられてきたバビロンでした。
 しかし、自らの高ぶりによって、神さまに敵対し戦いを挑んだことで裁かれます。
 イザヤ書14章12-15節を読みます。

14:12 黎明の子、明けの明星よ、あなたは天から落ちてしまった。もろもろの国を倒した者よ、あなたは切られて地に倒れてしまった。
14:13 あなたはさきに心のうちに言った、『わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果なる集会の山に座し、
14:14 雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう』。
14:15 しかしあなたは陰府に落され、穴の奥底に入れられる。

 預言者イザヤは13-14章でバビロンの滅びを預言していますが、理由を14章で示しています。バビロンの王は野心を抱き、自分を神として考え、真の神さまの権威を認めず、自分が神に代わるものとして、あらゆるものが自分を拝むことを求めるようになったのです。
 これが「高ぶり」であり、高ぶったバビロンの王が神さまに対して争いを仕掛けました。

 14節の《いと高き者のようになろう》というバビロンの思いは、天使(ルシファー)の思いでもありました。その結果、天使ルシファーは天から落とされサタンとなり、世の支配者となったのでした。
 それ故、聖書ではサタンをさしてバビロンと表記されることがあります。
 新約聖書の使徒行伝12章21-23節を読みます。

12:21 定められた日に、ヘロデは王服をまとって王座にすわり、彼らにむかって演説をした。
12:22 集まった人々は、「これは神の声だ、人間の声ではない」と叫びつづけた。
12:23 するとたちまち、主の使が彼を打った。神に栄光を帰することをしなかったからである。彼は虫にかまれて息が絶えてしまった。

 このヘロデは、ヘロデ・アグリッパ1世です。彼は、イエス様が誕生されたときにイスラエルを治めていたヘロデ大王の孫です。

 ヘロデを倒したのは、《主の使》でした。神さまに栄光を帰さなかったヘロデに対する神の裁きが下ったのです。王の神格化は、聖書で固く禁じられています。歴代の預言者は、そのために戦ったのです。ヘロデはその誘惑に負けて、神さまに栄光を帰することをしなかったため、変死したのです。

 いつの世でも、自分が神さまの位置に就こうとして自分を神とし、神さまに栄光を帰さない高ぶりは、神さまによって砕かれるのです。

 反対に、どれだけ失敗したとしても、神さまの前に、いつでも砕かれた悔いた心で近づく者を、神さまは喜んで受け入れてくださり、神さまが引き上げて高くしてくださいます。
 新約聖書 ペテロの第一の手紙5章6節を読みます。

5:6 だから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい。時が来れば神はあなたがたを高くして下さるであろう。

 エレミヤ書に戻ります。エレミヤ書51章60-64節を読みます。

51:60 エレミヤはバビロンに臨もうとするすべての災を巻物にしるした。これはすなわちバビロンの事についてしるしたすべての言葉である。
51:61 エレミヤはセラヤに言った、「あなたはバビロンへ行ったならば、忘れることなくこのすべての言葉を読み、
51:62 そして言いなさい、『主よ、あなたはこの所を滅ぼし、人と獣とを問わず、すべてここに住む者のないようにし、永久にここを荒れ地としようと、この所について語られました』と。
51:63 あなたがこの巻物を読み終ったならば、これに石をむすびつけてユフラテ川の中に投げこみ、
51:64 そして言いなさい、『バビロンはこのように沈んで、二度と上がってこない。わたしがこれに災を下すからである』と」。ここまではエレミヤの言葉である。

 エレミヤがこう預言した約50年後、ペルシャの王クロスによってバビロンは滅ぼされます。
 神さまが語られたことは必ず成就・実現するのです。

3、エルサレム陥落と捕囚~その後の希望(52章)
 ここには、列王紀下25章1-12節の内容が記されています。
 ユダのゼデキヤ王は、バビロンのあやつり人形のような存在でした。しかし、その治世九年目に、バビロンへ反逆したことで、エルサレムはバビロンに包囲され、治世11年目には、町の中の食料は甚だしく欠乏し、城壁の一部が破られた事で、王はエルサレムから逃亡します。

 そしてエルサレムは陥落し、多くの者が殺され、また捕囚の身となりました。
 逃亡したゼデキヤ王は、子どもたちを目の前で殺され、自身は目をつぶされてバビロンに連行されます。そして牢獄の中で最後を迎えます。

 エレミヤが預言してきたこと、民たちに与え続けた警告が、現実となりました。

 預言者は、神さまの言葉を語り、神さまからの警告については、民たちがそれを聞いて悔い改めるようにするのが役割でした。

 とすれば、この世的に見れば、エレミヤは役割を果たせずに失敗したと言えるでしょう。彼には財産もなく、家族も友人もいなかったようです。
 彼は、人生の敗者にように見えるかもしれません。

 しかし、エレミヤは、神さまから与えられた彼の役目を忠実に果たし続けました。
 エレミヤ書1章19節を読みます。

1:19 彼らはあなたと戦うが、あなたに勝つことはできない。わたしがあなたと共にいて、あなたを救うからである」と主は言われる。

 エレミヤは指導者から拒否され、いのちの危険にさらされても、神さまの言葉を真っ直ぐに伝え続けました。そんなエレミヤを神さまはどこまでも守られたのです。

 宗教改革に燃えたヨシヤ王など、エレミヤが語る神さまの声に耳を傾け、神さまに向かう方向に舵を切ろうとした指導者もいました。
 しかし、そんな機会も他の多くの指導者や民たちは生かすことができず、エレミヤは、民を滅ぼすという神さまの言葉を伝え続けなければなりませんでした。

 神さまに頼り、民に寄り添いどこまでも期待しては裏切られたエレミヤが、失意とともに流した涙から、私たちは、まことの神さまのお気持ちを理解することができます。
 エレミヤと言う預言者は、神さまと民の両方に最も近く寄り添い歩んだ預言者ではなかったでしょうか。

 この世的な勝利はいただけなかったエレミヤですが、どこまでも神さまに忠実に従い続けた彼の上には主の栄光がまぶしく輝き続け、霊的に高く上げられたということでしょう。

 それが、52章で記されている神さまに従わないゼデキヤ王の悲惨な最期との対比で、より鮮明になっていると感じられます。

 そして捕囚後に、民全体に浸透した偶像礼拝がピタリと止むことを見れば、エレミヤのしたことが全く無駄ではなかったことと、神さまの御思い、ご計画の完全さは、驚くばかりです。

 私たちは、「どうして」、「なぜ」と、神さまの前に涙することがあったとしても、神さまの憐れみは、どこまでも私たちを追い求め、私たちへ最善が必ずなされるのです。
 エレミヤ書12章15節を読みます。

12:15 わたしは、彼らを抜き出したのちに、また彼らをあわれんで、それぞれその嗣業に導き返し、おのおのを、その地に帰らせる。

 エレミヤが言うとおり、神さまの深いあわれみは必ず神にある者を必ず回復に導かれます。
 エレミヤ書52章31-34節を読みます。

52:31 ユダの王エホヤキンが捕え移されて後三十七年の十二月二十五日に、バビロンの王エビルメロダクはその即位の年に、ユダの王エホヤキンを獄屋から出し、そのこうべを挙げさせ、
52:32 親切に彼を慰め、その位を、バビロンで共にいる王たちの位よりも高くした。
52:33 こうしてエホヤキンは獄屋の服を脱いだ。そして生きている間は毎日王の食卓で食事し、
52:34 彼の給与としては、その死ぬ日まで一生の間、たえず日々の必要にしたがって、バビロンの王から給与を賜わった。

 エルサレム陥落前、先にバビロンの捕囚となっていたユダのエホヤキン王が、なぜか、牢獄から出され、死ぬ日まで王の食卓についています。
 その理由について、聖書は沈黙しています。
 エレミヤ書には多くの警告と裁きが記されています。しかし、エレミヤ書最後の記述に、ダビデの子孫であるエホヤキン王の扱いは、イスラエルの民にとって希望を見出したことでしょう。

 最後になりますが、マタイによる福音書1章のイエス・キリストの系図にあるエコニヤ(11-12節)とは、エホヤキン王のことです。

2023年11月12日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:香川尚徳

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