ショートメッセージ【ダニエル①】
ダニエル書1章
(求めるべきもの)
1、ダニエル書の背景
2、四人の若者について
3、信頼に報いた神さま
先週で、香川尚徳師による“エレミヤ”の学びが終わりました。本日から、香川盛治師より“ダニエル”を6回に分けて学んでいきたいと思います。
1、ダニエル書の背景
ダニエル1章1-2節を読みます。
1:1 ユダの王エホヤキムの治世の第三年にバビロンの王ネブカデネザルはエルサレムにきて、これを攻め囲んだ。
1:2 主はユダの王エホヤキムと、神の宮の器具の一部とを、彼の手にわたされたので、彼はこれをシナルの地の自分の神の宮に携えゆき、その器具を自分の神の蔵に納めた。
バビロンによるイスラエル強襲の記事が書かれています。
何度も確認してきたことですが、このような惨事になったのはイスラエルの民が、神さまに対する信頼や信用のなさの結果であることがわかります。
イスラエルの民の主である神さまと供に生きるということは、神さまへの信頼、信用のもとに成り立っていることを聖書はくり返し伝えているのです。
少し背景を加えますと、年代ははっきりと書かれていますので紀元前540ー530年あたりであることは決定しています。ダニエル書が書かれたのはもっと後であると根拠を示す人たちがいます。そして、そちらのほうがキリスト教内で主流になっているようです。
しかし年代がはっきり書かれている以上、詭弁(道理に合わない)と言わざるを得ないでしょう。
《聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたもの…》(新約聖書 第2テモテ3章16節)と使徒パウロは言っていますが、原典を受け入れない信仰は詭弁なのです。ですから、当然のことですが、私たちは聖書の記事を事実として追っていきます。
2、四人の若者について
バビロンの王は、イスラエルの中から血筋のよい優秀な者を育てて自分の側用人として仕えさせたいと願いました。そこで選ばれたのが、“ダニエル”、“ハナニヤ”、“ミシャエル”、“アザリヤ”という4人です。イスラエル人としての名前ではなくバビロン人としての名前と言えばよいでしょうか。それぞれに名前が与えられています。
ダニエルはベルテシャザル、ハナニヤはシャデラク、ミシャエルはメシャクと、アザリヤをアベデネゴと、それぞれ名前が付けられました。敵国の名前になるのは屈辱的なこととも言えますが、言い換えれば、その文化で生かされる道が開かれたとも言えます。
しかし、ダニエルたちは、そのような環境の中で優先したのは神さまへの姿勢と信頼でした。
1章8節から16節を読みます。
1:8 ダニエルは王の食物と、王の飲む酒とをもって、自分を汚すまいと、心に思い定めたので、自分を汚させることのないように、宦官の長に求めた。
1:9 神はダニエルをして、宦官の長の前に、恵みとあわれみとを得させられたので、
1:10 宦官の長はダニエルに言った、「わが主なる王は、あなたがたの食べ物と、飲み物とを定められたので、わたしはあなたがたの健康の状態が、同年輩の若者たちよりも悪いと、王が見られることを恐れるのです。そうすればあなたがたのために、わたしのこうべが、王の前に危くなるでしょう」。
1:11 そこでダニエルは宦官の長がダニエル、ハナニヤ、ミシャエルおよびアザリヤの上に立てた家令に言った、
1:12 「どうぞ、しもべらを十日の間ためしてください。わたしたちにただ野菜を与えて食べさせ、水を飲ませ、
1:13 そしてわたしたちの顔色と、王の食物を食べる若者の顔色とをくらべて見て、あなたの見るところにしたがって、しもべらを扱ってください」。
1:14 家令はこの事について彼らの言うところを聞きいれ、十日の間、彼らをためした。
1:15 十日の終りになってみると、彼らの顔色は王の食物を食べたすべての若者よりも美しく、また肉も肥え太っていた。
1:16 それで家令は彼らの食物と、彼らの飲むべき酒とを除いて、彼らに野菜を与えた。
本来、奴隷とされた者の発言ではありません。奴隷は、指示されたことをする以外に生きる道はありませんから。おそらく、王の食事には、律法に聖くないと書かれている食べ物があったのでしょう。
ここでは、ダニエル、そして残りの3人もですが、自分の命の危機以上に、神さまに対する畏怖を大切にしていることがわかります。
捕囚されているのですから、神さまを恨み、心を変えてバビロンで生きることも可能だったはずです。しかし、そのような選択肢がありながらも、神さまへの信頼を一番としました。
これは、むしろ捕囚されたからかもしれません。神さまに、自分たちの形や立場だけの信頼ではダメだったことを改め、真実の心で神さまへ、お仕えすることを教えられて変わっていったのではないでしょうか。
3、信頼に報いた神さま
1章17-21節を読みます。
1:17 この四人の者には、神は知識を与え、すべての文学と知恵にさとい者とされた。ダニエルはまたすべての幻と夢とを理解した。
1:18 さて、王が命じたところの若者を召し入れるまでの日数が過ぎたので、宦官の長は彼らをネブカデネザルの前に連れていった。
1:19 王が彼らと語ってみると、彼らすべての中にはダニエル、ハナニヤ、ミシャエル、アザリヤにならぶ者がなかったので、彼らは王の前にはべることとなった。
1:20 王が彼らにさまざまの事を尋ねてみると、彼らは知恵と理解において、全国の博士、法術士にまさること十倍であった。
1:21 ダニエルはクロス王の元年まで仕えていた。
神さまは、ダニエルらの信頼に応え、肉体を守るだけでなく、知識と知恵を多く与えられました。バビロン帝国内で彼らに勝る人はいなかったのです。
箴言1章7節には、《主を恐れることは知識のはじめである、愚かな者は知恵と教訓を軽んじる。》と書かれています。
これは現代のクリスチャンも同様です。神さまへの恐れ、そして神さまの知恵と教訓を知るために私たちは聖書を読みます。そして、それを現代に適用して生きているのです。
本日の初めに、ダニエル書が書かれたのは、もっと後であると根拠を示す人たちがいることを話しました。また、それが主流であることを述べました。
しかし、ダニエル書には、ダニエル自身が書いたことが分かる箇所があります。下記の2か所です。
ダニエル書9章1-2節
9:1 メデアびとアハシュエロスの子ダリヨスが、カルデヤびとの王となったその元年、
9:2 すなわちその治世の第一年に、われダニエルは主が預言者エレミヤに臨んで告げられたその言葉により、エルサレムの荒廃の終るまでに経ねばならぬ年の数は七十年であることを、文書によって悟った。
ダニエル書10章2節
10:2 そのころ、われダニエルは三週の間、悲しんでいた。
また、ダニエル書は、預言者ダニエル自身が書いたものとしてものとして、新約聖書のマタイによる福音書24章15節で引用されています。
新約聖書 マタイによる福音書24章15節
24:15 預言者ダニエルによって言われた荒らす憎むべき者が、聖なる場所に立つのを見たならば(読者よ、悟れ)、
ですから、本日のダニエル書とダニエルたちから学び、ダニエル書の書かれた時代に異を唱える人たちへ、「あなたがたは、神さまとその言葉に対する信頼や信用の心をお持ちなのでしょうか?」と、適用して勧告するのは、言い過ぎでしょうか。
聖書は、神さまが天地万物・動物や人を創造され、私たちが、その創造主である神さまを心から信頼して生きると祝福をお与えになることをイスラエルの歴史を通して教えている書物です。
私たちは、聖なる神さまを見ることをできません。しかし、この信頼できる聖書によって天地万物を創造され、私たちを見ていて、歴史にご介入されることを学ぶことができ、感じることができるのです。
2023年11月19日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:香川盛治
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