素直に読む【ヨハネの黙示録_6】

黙示録2章12-17節
「ペルガモにある教会の御使に」

〈はじめに〉
 前回、スミルナの教会についてみました。今回は2章12-17節で、ペルガモにある教会の御使いに送られた手紙の内容を見ていきましょう。

≪ペルガモ≫
 ローマ帝国のアジア州における首都(その後首都はエペソに移ります/AD129)。
 エペソやスミルナのように商業的に需要な都市ではありませんでしたが、他の都市に優って文化の中心地でした。大きな図書館があって、20万巻の羊皮紙の蔵書がありました。
 それは、ローマ帝国の時代まで、世界一と言われたアレキサンドリアの図書館に次いで、2番目に大きな規模でした。

 また、古代宗教の中心地でもあり、2つの大きな神殿が有名でした。
 1つは、ゼウス神とその祭壇で、ギリシャの神々への礼拝場所。もう1つは、ペルガモの神と言われるアスクレビオスの神殿でした。アスクレビオスは、病気を癒す神で、エペソのアルテミスと並び有名であった。その標章(その神をあらわすしるし)として蛇が用いられていた。

 さらに、政治の中心地でもあり、皇帝礼拝が組織化して実施されていました。この町をイエス様が、サタンの座と呼ばれた理由は、有名な神殿、特に蛇をしるしとする、アスクレビオスを指して言われたのか、それとも、クリスチャンを死に追いやる皇帝礼拝を強いる町であったからか、また、その両方か、それはよくわかりませんが、この町もクリスチャンにとって、決して良い環境とは言えませんでした。それどころか不毛の地と言っても良い環境でした。

〈本文〉
 ヨハネの黙示録2章12節を読みます。

2:12 ペルガモにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『鋭いもろ刃のつるぎを持っているかたが、次のように言われる。

 ペルガモの教会に向かってのイエス様の呼び名、そのお姿は、鋭いもろ刃のつるぎを持つお姿です。これは、1章16節の《口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており》と描写されている裁き主なるイエス様のお姿です。
 そして、《口からは》とありますから、御言葉の剣を持たれ、その御言葉で正義をかたり、裁かれるイエス様のお姿です。
 ヨハネの黙示録2章12節を読みます。

2:13 わたしはあなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの座がある。あなたは、わたしの名を堅く持ちつづけ、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住んでいるあなたがたの所で殺された時でさえ、わたしに対する信仰を捨てなかった。

 その裁き主のお姿であるイエス様が、《あなたの住んでいる所を知っている》と言われました。それは、大きな神殿がある異教徒の地、皇帝礼拝が組織的に実施されている地、クリスチャンにとって不毛の地、イエス様はそれをよくご存じで、サタンの座があるとも言われています。

 あなたがたが、どんな厳しい状況下にあるか、どれほど霊的な戦いがあるか、イエス様は全てをご存知の上で語っていると初めに言われています。これを聞く者は、まず慰めをいただき、励まされたことでしょう。
 それはサタンが驚く力を持って激しく動き回っている中にあって、イエス様の名を堅く持ち続けているということです。

 《堅く持ちつづけ》ていると訳されているこの言葉は、放さずに掴まえておくという意味で、一度握ったら決して放さない。それほどまでに堅い信仰に歩んでいる。
 心の中の思いをもすべてご存知のイエス様がそう言われています。それほどに確かな信仰であるということでしょう。何かあればすぐに放したがる,心変わりしたがる信仰ではなく、それほど堅くて確かな信仰をペルガモの教会の兄弟姉妹は持ち続けていたということです。

 このペルガモ教会の信仰の確かさの例として、アンテパスのことが取り上げられています(アンテパスと聞くと、ヘロデ・アンテパスを思い出す方もおられるかもしれません。ヘロデ・アンテパスは、ヘロデ大王の息子の1人で、バプテスマのヨハネを処刑した人物でした。)
 ここで紹介されているアンテパスについては、よくわかっていません。伝承的な記述が少し残っている程度ですが、キリストに仕えていた忠実な証人で、ここで、殉教の死を迎えたということでしょう。しかし、ペルガモの兄弟姉妹は、そのことで、神さまの守りを疑ったり、自分たちへの影響を恐れたりせず、一度握った信仰を放さないで、堅く信仰に立ち続けていると言われています。
 これは簡単ではないでしょう。ペルガモ教会の兄弟姉妹たちは、命を自分の手に握らず、神さま、イエス様に全て明け渡していたから、疑うことも、恐れることも、及び腰になって、信仰をその手から離すことがなかったのでしょう。

 この彼らの、自分の命に対する執着心を持たない信仰は、前回見たスミルナの教会の対比にもなっているようです。スミルナの教会の兄弟姉妹は、命の危機にあって、命のすべてを司るイエス様からの励ましが必要な状態でした。しかし、ペルガモの兄弟姉妹は、命までもイエス様にお委ねして固く信仰に歩んでいたということです。
 ヨハネの黙示録2章14-15節を読みます。

2:14 しかし、あなたに対して責むべきことが、少しばかりある。あなたがたの中には、現にバラムの教を奉じている者がある。バラムは、バラクに教え込み、イスラエルの子らの前に、つまずきになるものを置かせて、偶像にささげたものを食べさせ、また不品行をさせたのである。
2:15 同じように、あなたがたの中には、ニコライ宗の教を奉じている者もいる。

 このように完成されたように見える信仰をあらわしていながら、また、心の中を見られるイエス様にも褒められるほどの信仰もありながら、兄弟姉妹の中に、バラムの教えや、ニコライ宗の教えを奉じる者がいました。

 奉じるとは、それをたてまつり、従い、献げるということです。偶像にささげた物を食べ、また、人に食べさせ、不品行を勧め、異教の地にあってその生活の中に溶け込んだ異教の習俗、慣習、世的感覚をよしとして受け入れ、また、他の兄弟姉妹にも勧める者たちがいたのです。そしてそれは、その人たちの信仰の問題というだけではなくて、それを赦している教会全体の問題であると言われているのです。

 ペルガモ教会は、偶像を退け、きっぱりと皇帝礼拝に「NO」と言って、唯一の神さまをまことの神さまとして仰ぐ、まっすぐな信仰に歩みながらも、生活の中に自然と入り込んでいる異教習慣が、知らない内に信仰を歪めようとしていることに気付いていませんでした。
 もちろん全く知らなかったわけではなく、しかし、それほど目くじらを立てず、「これぐらいはまぁまぁ」と受け入れていたのでしょう。交わりを尊重していたのかもしれません。
 しかし、私たちの交わりは、イエス様を信仰の中心としての交わりでなければなりません。
 そして、イエス様は、罪の大小ではなく、全ての罪を憎まれるお方です。
 ルカによる福音書13章1-5を読みます。

13:1 ちょうどその時、ある人々がきて、ピラトがガリラヤ人たちの血を流し、それを彼らの犠牲の血に混ぜたことを、イエスに知らせた。
13:2 そこでイエスは答えて言われた、「それらのガリラヤ人が、そのような災難にあったからといって、他のすべてのガリラヤ人以上に罪が深かったと思うのか。
13:3 あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう。
13:4 また、シロアムの塔が倒れたためにおし殺されたあの十八人は、エルサレムの他の全住民以上に罪の負債があったと思うか。
13:5 あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」。

 はじめに見たエペソの教会は、ニコライ宗の人たちをはじめ、まことの信仰にない者たちを締め出しました。しかし、裁きに熱心になりすぎて、愛ある交わりが失われてしまいました。
 逆にペルガモの教会は、交わりを重視し過ぎて、それが妥協になって、また、自分個人の信仰がしっかりしていれば大丈夫だと考えて、教会全体が証するということに無頓着になっていたようです。
 信仰は、個人的な者もの。神さまと自分と一対一の関係ではありますが、人の集まりとしての教会と言う組織が証しするということ。また、教会は、イエス様が愛されて、その愛に愛をもって応えていくことを覚えて信仰に歩む必要を教えられます。
 ヨハネの黙示録2章16節を読みます。

2:16 だから、悔い改めなさい。そうしないと、わたしはすぐにあなたのところに行き、わたしの口のつるぎをもって彼らと戦おう。

 ① 思い起こし、間違いの原点に返り
 ② 悔い改め、罪を認め
 ③ わざを行う、神さまにあわれみを請い、委ねて神さまの御心をなす。そのためにイエスさまに委ねて歩むのです。

 そうでなければ、イエス様は、その人たちに対して、口の鋭いもろ刃の剣によって戦われると言われているのです。その人たちを、信仰のない者として裁かれることを意味します。
 ヨハネの黙示録2章17-18節を読みます。

2:17 耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、隠されているマナを与えよう。また、白い石を与えよう。この石の上には、これを受ける者のほかだれも知らない新しい名が書いてある』。
2:18 テアテラにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『燃える炎のような目と光り輝くしんちゅうのような足とを持った神の子が、次のように言われる。

 他の教会同様に勝利を得る者への約束が述べられています。
 この勝利者とは、指摘された問題を教会の問題として受けとめ、教会として悔改め、偶像の教えを受け入れている者に寛大にならず、修正を迫り、教会全体として悔改める時に、サタンの罠に落ちなかった勝利者として見ていただけるのだということでしょう。
 そして、この勝利者には、2つのプレゼントが約束されています。

 (1)隠されているマナ
 あえて隠されていると言っているので、出エジプトの時のマナとは違うのでしょう。これまでは明らかにされてこなかった、隠されてきた真のマナ、それはイエス・キリストご自身に他ならないと言えます。
 ヨハネによる福音書6章48-51節を読みます。

6:48 わたしは命のパンである。
6:49 あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった。
6:50 しかし、天から下ってきたパンを食べる人は、決して死ぬことはない。
6:51 わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である」。

 では、イエス・キリストを食べるとはどうすることでしょうか。
 パンを食べるようにキリストを食べるように言われているのではありません。キリストを食べるとは、キリストを自分の王座に迎え入れ、キリストによって、生きるようになることです。花婿と花嫁、夫婦として、イエス様と完全に一体とされるということでしょう。これが終わりの日に実現すると言われているのです。
 ヨハネによる黙示録に戻り、2つめのプレゼントです。2章17節の《白い石》。

 (2)白い石
 この白い石がなんであるか?わかっていません。説は、たくさんあります。たくさんあって、すべて説ということは、答えがないということです。ざっと紹介します。

 ① 法廷において用いられるもので、白い石は無罪を現すもの。
 ② 天国へのパスポート。
 ③ 主が開いて下さる祝宴への招待状。
 ④ 大祭司が身につけている胸当ての石。
 ⑤ 幸運のしるし。
 これら以外にも多くの説があるようです。しかし、どれも決め手となるものがないのです。

 そこで、私たちはどう考えるべきなのでしょうか。ここでは、正確に理解することが求められているのではなく、神さまが御国に迎え入れようとする民に対して、必要なしるしとなるものとして与えて下さるものであると受けとめていれば良いと思います。隠されていたマナを与えると共に、御国に迎え入れてくださる約束その、間違いのない保証だと考えていればいいでしょう。

 最後に、この石に書かれている新しい名前について。
 白い石に書かれている誰も知らない、新しい名。これも大きく2つの説があり、1つは、それがイエスさまの名前であるというもの。もう1つは、受け取る本人の名という説です。

 あたらしい身分が与えられると新しい名が与えられるというのは旧約聖書でみられることです。アブラム⇒アブラハム、ヤコブ⇒イスラエルとされたようにです。
 旧約聖書 イザヤ書65章15節を読みます。

65:15 あなたがたの残す名は/わが選んだ者には、のろいの文句となり、主なる神はあなたがたを殺される。しかし、おのれのしもべたちを、ほかの名をもって呼ばれる。

 これは、神のしもべたちの国について書かれている箇所でその中に「おのれのしもべたちを、ほかの名をもって呼ばれる。」ということが記されています。
 新しい役割をあらわす新しい名前だったらいいですね。

〈今回の学び〉
 ここまで、エペソ、スミルナ、ペルガモとみて参りました。これだけでも教会のいろいろな問題、側面を見る思いがします。教会ごとの問題、また同じ教会の中でもその歩み、歴史の中での変遷、どこの教会にも起こりえる、また歴史の中でも繰り返される問題であると感じ入ります。
 今日のペルガモの教会は、皇帝礼拝に勝利していました。殉教者がでてもびくともしない。そんな信仰に生きていました。もはや自分たちのそのいのちをいのちの君であるイエスさまに完全に委ねていました。
 素晴らしい信仰。でも、それでも、問題がありました。
 生活の習慣の中に溶け込んで教会の中に侵入してくる罪の問題。これは、私たちも例外ではないでしょう。
 教会として、どのような人も受け入れる。愛していくそう言う中でも罪に対しての妥協があってはならないということでしょう。

 また個人的な1人1人の信仰も同様に、ご聖霊に罪を示されたら罪の大小にかかわらずに悔い改めなければなりません。イエスさまは、わたしたちに猶予は与えてくださいますが、素直にすぐに悔い改める者をイエスさまは喜んでくださいます。
 ルカによる福音書13章6-9節を読みます。

13:6 それから、この譬を語られた、「ある人が自分のぶどう園にいちじくの木を植えて置いたので、実を捜しにきたが見つからなかった。
13:7 そこで園丁に言った、『わたしは三年間も実を求めて、このいちじくの木のところにきたのだが、いまだに見あたらない。その木を切り倒してしまえ。なんのために、土地をむだにふさがせて置くのか』。
13:8 すると園丁は答えて言った、『ご主人様、ことしも、そのままにして置いてください。そのまわりを掘って肥料をやって見ますから。
13:9 それで来年実がなりましたら結構です。もしそれでもだめでしたら、切り倒してください』」。

 私たちは、神さまに犯した自分の罪を自分で処理できません。
 ヨハネの第一の手紙1章9節を読みます。

1:9 もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。

 神さまは、私たち一人ひとりの関係を待っておられます。

2023年11月24日
尚徳牧師の素直に読む【ヨハネの黙示録_6】
タイトル:「ペルガモにある教会の御使に」
牧師:香川尚徳