素直に読む【ヨハネの黙示録_8】
ヨハネの黙示録3章1-6節
「サルデスにある教会の御使に」
〈はじめに〉
今回は3章1-6節で、サルデスの教会の御使いに送られた手紙の内容を見ていきましょう。
≪サルデス≫
サルデスは、BC(紀元前)6 世紀にはリディア王国の首都としてとても栄えた町でした。
断崖絶壁の丘の上にある城塞(アクロポリス)は、難攻不落とされていました。しかし、その地理的条件を過信して防衛を怠ったために、過去2回、ペルシアのクロス王と、セレウコス朝アンティオコスによって陥落しています。
どうやら、ここの住民は自信過剰なのか、物事を過信しやすい、熟慮しない民族的体質であったようです。
サルデスは、BC133 年にはローマの支配下に入りました。
毛織物産業の中心地として栄えていたのですが、AD(紀元前)17 年に、大地震に見舞われ、街は壊滅してしまいました。その後、復興されましたが、昔のようには栄えなかったと言われています。
ヨハネがサルデスに、この手紙書いた頃は、街は堕落して、退廃的な雰囲気の漂う街となっていたようです。そんな退廃的な空気の中で、キリストの教会もまた、生き生きとした精神と力とを失い、生ける教会ではなく、“生けるしかばね”、すなわち、霊的な昏睡状態に陥っていたようです。
〈本文〉
ヨハネの黙示録3章1節を読みます。
3:1 サルデスにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『神の七つの霊と七つの星とを持つかたが、次のように言われる。わたしはあなたのわざを知っている。すなわち、あなたは、生きているというのは名だけで、実は死んでいる。
ヨハネの黙示録1章4節で、この七つの霊は、ご聖霊のさまざまな働きを示しているとお話ししました。
イザヤ11章2節によれば、それらは、主の上にとどまる、知恵、悟り、深慮(熟慮)、才能、知識を与え、主を恐れる。といった、霊的な働きを導くのでした。また、星は御使いでした。この御霊と御使いのはたらきによってその“霊的いのち”で教会を保ち導かれるイエス様が、ここで強調されています。
そして、サルデスの教会は、生きていると言われながら、実は、霊的に死んでいるということで、イエス様から、厳しい叱責を受けています。
3章2節を読みます。
3:2 目をさましていて、死にかけている残りの者たちを力づけなさい。わたしは、あなたのわざが、わたしの神のみまえに完全であるとは見ていない。
ペルガモやテアテラの教会では、世の中の誘惑に陥っていたのは、一部の兄弟姉妹でした。しかし、ここサルデスでは、もう教会が、つまり、ほとんどの兄弟姉妹が、霊的に瀕死の状態で今にも完全に死んでしまいそうなひどい状態ということのようです。
しかし、イエス様は見捨ててはおられません。目をさましていなさいと言われています。
もし神さまを信じる心の霊が完全に死んでいて、神さまと結びつく部分が全くなくなり、世と同化してしまっていたなら、すなわち、世の人と変わらない生き方をしていたなら、起き上がることはできません。
そこで、霊が死んでいるのではなく、眠っているだけなら、目を覚まして起き上がることが出来る、まだ間に合うと言っておられるのです。
ところで、サルデスの教会は迫害が酷くてその戦いがたいへんだったのでしょうか、また、ニコライ宗のような異端がはびこり、その戦いに負けていたのでしょうか。
どうやら、そうではなかったようです。
サルデスの教会には、ユダヤ人や異邦人からの攻撃、また、皇帝礼拝を強要するローマからの圧力はなかったようです。
攻撃や圧力は、地理的要因もあるでしょう。しかし、ここで注目する点は、そのような攻撃や圧力の対象にならなかったのではないかと思われます。
つまり、霊的に死んでいるということは、教会として、イエス・キリストが証されていなかった。福音宣教への情熱が失われていたということでしょう。ユダヤ人や、異邦人たちにとってサルデスの教会が脅威に感じられなかった。あえて攻撃する対象になるほどのことはなかった。放っておいてもユダヤ人や異邦人たちの邪魔になることはなかったということだったのではないでしょうか。
また、誤った教えや異端が入り込んだ形跡もありません。異端は、裏を返せば、探求心、求道心の現れです。それは、真理の一面を強調し過ぎて起こります。教えられたことを吟味して、自分のものにしようとする中で、全体の調和から外れて、1つにのめり込むときに起こってきます。
サルデスの兄弟姉妹には、この探求心、求道心が失われていました。さらに言えば、神さまへの信仰が怠惰になっていました。与えられたものを受け入れて、考えることをせずに決められたこと、つまり、儀式、宗教的な習慣、伝統、礼拝などを形式的に行っていた。しかし、そこに霊的な中身が伴っていなかったのです。
2節でイエス様は、《わたしは、あなたのわざが、わたしの神のみまえに完全であるとは見ていない。》と言われています。
サルデスの教会の兄弟姉妹の目には、サルデスは素晴らしい教会であると見えていたかもしれないのですが、神さまの目から見ればそれは、瀕死の状態でした。また、外から見たユダヤ人や異邦人にも死んだ教会と映っていた。だから、攻撃の対象にもならなかったのです。3節を読みます。
3:3 だから、あなたが、どのようにして受けたか、また聞いたかを思い起して、それを守りとおし、かつ悔い改めなさい。もし目をさましていないなら、わたしは盗人のように来るであろう。どんな時にあなたのところに来るか、あなたには決してわからない。
3節は、《だから、あなたが、どのようにして受けたか、また聞いたかを思い起して、それを守りとおし、かつ悔い改めなさい。》という命令が書かれています。
あなたがどのように福音を受け取り、どのように聞いてきたのか。
熱意と真実をもって受け、聞いた福音ではなかったか。そして、その感激と感動を、思い起こして、また、救われた時の喜びを思い起こしなさい。それらを毎日、思い起こし、覚え続けなさい(現在形で書かれていて継続の意味があります)。
そして、福音を素直に受け入れたあの思いを守り、死んでいた信仰の事実を認め、悔い改めて目を覚ましていることが重要だと言われているのです。
そして福音を(その感動やよろこびをそのままに)守り通し、かつ、悔い改めなさいと。この悔い改めは、2章でエペソ教会にも言われていました。
(1)思い起こしなさい。もと居たところに帰りなさい。
(2)悔い改め
間違いを認めて、悲しみ、主なる神さまに近づいて、謝罪をすること。
(3)わざを行いなさい
① 罪人の私を憐れんでくださいと自分を神さまの前に出ること。
② そして、神さまが、悔い改めにふさわしい実を結ばせてくださり、同じ罪を犯さないように導いてくださることを信じ、イエス様に委ねて進むことです。
イエス様は、マタイによる福音書24章42-44節で次のように弟子たちに言いました。
24:42 だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。
24:43 このことをわきまえているがよい。家の主人は、盗賊がいつごろ来るかわかっているなら、目をさましていて、自分の家に押し入ることを許さないであろう。
24:44 だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。
このままであれば、サルデスの人たちはこの御言葉を悔しさで、噛みしめなければならない日が来るであろう。そうイエス様は言われています。
ヨハネの黙示録3章4-6節を読みます。
3:4 しかし、サルデスにはその衣を汚さない人が、数人いる。彼らは白い衣を着て、わたしと共に歩みを続けるであろう。彼らは、それにふさわしい者である。
3:5 勝利を得る者は、このように白い衣を着せられるのである。わたしは、その名をいのちの書から消すようなことを、決してしない。また、わたしの父と御使たちの前で、その名を言いあらわそう。
3:6 耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』。
この教会の大勢は、死んでいる信仰者たちであったのですが、その中に、衣を汚さない人が数人いたと言われるのです。つまり、死んでいる教会だと言われている人たちの中にいて、生きている人たちがいたのです。イエス様がそのように認めておられるのですから、本物の信仰であったことは疑問の余地がありません。
そして、そのような勝利者には、神さまからの白い衣が与えられます。しかし、数人の人たちはすでに白い衣を着ていたのです。そして彼らはわたしと共に歩き続けるだろうと言われています。
ここで、すでに白い衣を着ていたならば、勝利者に与えられる白い衣は、すでにいただいているのでご褒美にならないのではないかという疑問が生じます。
おそらく、現在の白い衣と終わりの日に与えられる白い衣とは質が違うのでしょう。
すなわち、現在の白い衣は、キリストを信じる信仰によって、白くされている衣ですが、それは中身の汚れまで白くされるわけではありません。しかし、勝利者として用意されている白い衣とは、汚れなく、今後一切汚れない完全な白い衣だと言われているのでしょう。それは、死人の中からの復活の体が与えられることにより、中身まで完全に新しくされるからということでしょう。
さらに、《わたしは、その名をいのちの書から消すようなことを、決してしない。》と言われ、しかも、《わたしの父と御使たちの前で、その名を言いあらわそう。》と、イエス様ご自身が直接あなたの名を父と御使いたちの前で公言すると言われたのです。つまり、イエス様が、この者の保証人となりますと実名を上げて宣言して下さると言うことです。なんと素晴らしく誇らしいことでしょうか。
それでは、その《いのちの書》とは何を指しているのでしょうか。黙示録20章15節のところで明らかにされているように、《いのちの書》に記されている人は、神さまの御国へ、《いのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた。》とあることから、天の御国の住民であることを示す登録書のようなものでしょう。ルカによる福音書10章20節《しかし、霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろ、あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい」。》と書かれているイエス様の表現からすれば、「あなたがたの名が天に記されていることを喜びなさい」と言われているので、《天》そのものが、《いのちの書》だと言われていると言ってよいのかもしれません。
〈今回の学び〉
本日の個所から私たちは何を見ていけばよいでしょうか。
“生きた信仰とは”
言い換えれば、信仰に生きるということは、どういうことかを考えてみたいのです。
私たちは、自分がいかに、神さまに背いた罪深い存在であるか気づかされ、見えないお方ではありますが、万物を創造された唯一なる神さまが、おられることを受け入れました。その神さまの御前に生きるという最も祝福された価値ある人生を生きるためには、罪赦され、神さまに義とされる必要があることを知り、イエス・キリストを信じる以外に何の解決もないことを知って信じたのです。
つまり、イエス・キリストを信じることによって、私たちは義とされ、神の子とされて、永遠の命をいただく者となりました。
ローマ人への手紙6章11節にある通りです。《このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。》
とすれば、信仰によって生きるということは、神さまの目から見て、死んでいた私のいのちは、イエス・キリストの故に、神さまの憐れみによって新しく与えられたものであるということです。
信仰とは、もともと自分の命は、神さまのものであることを知ることですから、信仰に生きるとは、神さまを前に置き、(詩篇16篇8節)、神さまを第一として生きることになります(マタイによる福音書6章33節)。
さて、神さまは、どのような信仰者の信仰を“生きている”とされ、また、どのような信仰を“死んでいる”と見られるのでしょうか。
それは、お話しした通り、自分の命を神さまのものとして生きている信仰か、それとも自分の命をまだ自分の命だと考えて生きている信仰かによります。
サルデス教会の信仰者たちは、生きているというのは名だけで、実は死んでいると言われたことを思うと、彼らは、教会に集まり、信仰的な言葉を話し、信仰者らしく振る舞い、献金をささげ、祈っていたのだと思われますが、自分の命を神さまに捧げることをせず、自分の思いを第一に置き、自分のいのちを自分のものとして握っていました。そして、聖霊の助けを頂こうともせず、キリストの御手にしっかり保持されているということに気づこうとしない歩みをしていたのだと考えられます。
もう1つの判断材料は、その教会に聖霊が働いているか否かということでしょう。
3章1節で、イエス様は、7 つの霊を持つお方として描かれており、聖霊を遣わされたお方であることが強調されていることから聖霊がここでの重要なポイントだということが分かります。
イエス様が、この世を去って行かれる時、助け主となるご聖霊を、父が送って下さると言われました(ヨハネ14章16節)。
ご聖霊は神さまの御心を教え、福音に生きる生き方を導かれるお方です。そのご聖霊の働きと導きを信じ、頼るなら、霊的に死んだ状態になることはありません。
サルデス教会には、聖霊の働くことが出来ない信仰状態にあったということだと分かります。聖霊の助けを信じずに歩む信仰は、霊が生きていない信仰だとイエスさまは言われます。
プロテスタント系の特徴の1つとして教会の政治形態(運営方法)に、※会衆制というのがあります。(他に、長老制、監督制があります)
会衆制では、教会員が集まり資料を基に事務会で決定がなされています。しかし、それを本当に導いているのはご聖霊です。
※会衆性:
・地域教会(各個教会)が独立し、自らを統治する。
・地域教会のメンバーが皆、教会のことに発言権を持つ。
・教会員は地域教会の運営にあたって権利と責任を持つ。
・教会が選んだ指導者の指導を喜んで受け入れる。
私たちも生きた信仰、信仰に生きているか今一度吟味いたしましょう。
マタイによる福音書16章25節を読んで終わります。
16:25 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。
2024年1月19日
尚徳牧師の素直に読む【ヨハネの黙示録_8】
タイトル:「サルデスにある教会の御使に」
牧師:香川尚徳