素直に読む【ヨハネの黙示録_10】

黙示録3章14-22節
「ラオデキヤにある教会の御使に」

〈はじめに〉
 今回は3章14-22節で、ラオデキヤの教会の御使いに送られた手紙の内容を見ていきましょう。

≪ラオデキヤ≫
 町は3つの幹線道路が交差する場所に位置していて、急速に産業と経済の中心地となりました。
 金融と銀行の町。また、ラオデキヤ周辺で飼育されていた羊から黒紫色の光沢のある柔らかな毛が取れ、衣類の生産地としてもにぎわっていた。また、医学校があり、医学の中心地としても名をとどろかせていた。また、弱視によく効く薬(目につける粉薬/軟膏と紹介している書も)を作っていました。

 ラオデキヤの町は富んでいて、大金持ちも多く住んでいました。かつて地震のために町の一部が破壊された時も、住民たちは政府の援助を断ったほどでした。彼らは、ラオデキヤの住民であることを誇りにし、「わたしたちは、りっぱなラオデキヤの人間です。」という態度に満ちていたようです。ラオデキヤは、温泉地に近い場所にあり、この箇所で用いられている《なまぬるい》という表現も彼らには親しみのある表現だったと思われます。

〈本文〉
 では本文を見てまいりましょう。
 ヨハネの黙示録3章14節を読みます。

3:14 ラオデキヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『アァメンたる者、忠実な、まことの証人、神に造られたものの根源であるかたが、次のように言われる。

 ここでイエス様は、また別の呼び方をされています。
《アァメンたる者》:イエス様こそ、その言葉が真実で、その約束の信頼できるお方という意味です。

《忠実な、まことの証人》:イエス様こそ、神さまのことを人に伝える完全な証し人であるという意味です。

《神に造られたものの根源》:これはイエス様が、最初に神に造られたという意味ではありません。イエス様こそ造られたもののすべての根源、はじめであるという意味です。

 3章15-17節を読みます。

3:15 わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。
3:16 このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。
3:17 あなたは、自分は富んでいる。豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。

 イエス様は。ラオデキヤの教会に対して、褒める言葉は一切なく、いきなり強い口調で叱責を始めます。
 教会の兄弟姉妹も、多くの市民同様に、裕福であり、高慢でうぬぼれが強く、自分たちは特別だと思っていたのでしょう。
 イエス様は、3章17節でその心を見抜いてこのように記しています。《あなたは、自分は富んでいる。豊かになった、なんの不自由もないと言っているが》と。

 教会の兄弟姉妹は、経済だけではなくて、霊的にも富んでいる、恵まれている、不自由はないという態度で、罪の意識に苦しむと言ったことがなかった様子が伺えます。「自分たちはすでに到達(達成や成功)している」という強い思いで、悔い改めることなど思いもしなかったのでしょう。彼らは、霊的に全く無関心になっていました。

 15-16節で用いられている、《熱く》《熱い》は、熱湯のような熱さであり、冷たいは、凍るほどの冷たさを意味する言葉です。そうであれば、やり方はある、しかし、なまぬるく、気力なく、気乗りせず、軟弱で、すぐに妥協し、どっちつかずの信仰でありながら、私たちは、「ラオデキヤ教会のりっぱなキリスト教徒であります。」という霊的(神さまと自分・教会との関係)無関心な態度ではどうすることもできない。イエス様も、我慢がおできにならない、《あなたを口から吐き出そう。》と言われているのでしょう。ですから、《なまぬるい》という言葉がもっとも似つかわしいとして用いておられます。
 ルカによる福音書18章9-13節を読みます。

18:9 自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまたこの譬をお話しになった。
18:10 「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。
18:11 パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。
18:12 わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。
18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。

 イエス様は、「実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。」と言われています。
 ルカによる福音書18章13節に出てくるこの取税人は、胸を打ちながら《『神様、罪人のわたしをおゆるしください』》と言って悔い改めを請いました。

 取税人は、自分自身が、みじめな者、あわれまれるべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることがよくわかっていました。
 しかし、ラオデキヤの兄弟姉妹は、ルカの譬えのパリサイ人のように自分たちを高く上げて、霊的な貧しさに気付いていなかったのです。自分で立派なクリスチャンと思っていても、実は、イエス様が、嫌悪され《口から吐き出そう。》と言われるほど、みじめで、世からあわれむべき、貧しい、目の見えない、裸の王様のようなクリスチャンということに気付いていませんでした。(イエス様への信仰を評価されるのは、人ではなくイエス様ご自身です)

 彼らの信仰が、まったくのみせかけであり、偽物であることをイエス様は見抜いておられたので、あえてご自身が何者であるかを言い表されて証された。それが、ヨハネの黙示録3章14節の《アァメンたる者、忠実な、まことの証人、神に造られたものの根源であるかた》ということでしょう。本物をみなさい。見るべきものをみなさい。見るべきは世の反映ではなく、自分の富でもなく、地位でもない、創造主であり救い主であるイエスご自身を見なさい。
 あなたがたは、新しく造られたものにならなければならない。救われるために私に立ち返りなさい。私、イエスを見なさいとイエス様は導かれています。
 ヨハネの黙示録3章18-19節を読みます。

3:18 そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。
3:19 すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。

 イエス様は、このようなラオデキヤの教会の兄弟姉妹に対しても、まことに憐れみ深いお方です。吐き出すほどの嫌悪感を示す彼らに対して、《そこで、あなたに勧める。》と言われています。命じておられるのではなくて、勧めておられます。

 18節の《わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。》は、イエス様が、悔い改めて、救われるようにと導かれてるということです。
 このラオデキヤの産業を代表する金、衣、目薬を用いてお金で買える金、衣、目薬ではなく、お金では買えない、霊的な救いを求め、私からそれを手にしなさいとイエス様は諭しておられます。

 “救い”が“金”であるのは、それがまことに人を富ませるからです。
 “救い”が“白い衣”であるのは、それが、私たちの罪を隠して、義と聖さに歩ませてくださるからです。
 “救い”が“目薬”なのは、それを持つ私たちは、霊的に盲目ではないからです。
 これらを買えと言われています。
 しかしラオデキヤの兄弟姉妹は、霊的に、貧しい者であったので、イエス様が言われた、火で精錬された霊的な金、白い霊的な衣、そして霊的な目薬が買えないのです。
 どうすればよいでしょうか。イザヤ書55章1-7節を読みます。

55:1 「さあ、かわいている者は/みな水にきたれ。金のない者もきたれ。来て買い求めて食べよ。あなたがたは来て、金を出さずに、ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ。
55:2 なぜ、あなたがたは、かてにもならぬもののために金を費し、飽きることもできぬもののために労するのか。わたしによく聞き従え。そうすれば、良い物を食べることができ、最も豊かな食物で、自分を楽しませることができる。
55:3 耳を傾け、わたしにきて聞け。そうすれば、あなたがたは生きることができる。わたしは、あなたがたと、とこしえの契約を立てて、ダビデに約束した変らない確かな恵みを与える。
55:4 見よ、わたしは彼を立てて、もろもろの民への証人とし、また、もろもろの民の君とし、命令する者とした。
55:5 見よ、あなたは知らない国民を招く、あなたを知らない国民は/あなたのもとに走ってくる。これはあなたの神、主、イスラエルの聖者のゆえであり、主があなたに光栄を与えられたからである。
55:6 あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ。
55:7 悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。そうすれば、主は彼にあわれみを施される。われわれの神に帰れ、主は豊かにゆるしを与えられる。

 ヨハネの黙示録3章19節にある通り、イエス様に向かって《熱心になって悔い改めなさい。》なのです。
 ヨハネの黙示録3章20節を読みます。

3:20 見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。
3:21 勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である。

 イエス様から、戸を空けようとしてそこに立ってたたいてくださる。あきらめることをせず、何度でも繰り返し、しかも、《だれでもわたしの声を聞いて》とあるとおりに、私たち1人1人に対して呼びかけてくださいます。
 ご聖霊によって、主であるイエス様は人の心にお声をかけてくださるのです。
 これが救いに至らせる、また、悔い改めに導く神さまの御力なのです。
 この戸をあけたら、主なるイエス様が入ってきてくださる。イエス様が、栄光の神さまの御座から降りてきてくださり、食事をともにしてくださる。食事を共にするというのは、祝福された親しい交わりを持つということです。

 この交わりは、この世において始まり、世の終わりまで、そして来るべき神の国において完成します。そのとき勝利者イエス・キリストが、父なる神とともにその御座につかれ、勝利を分け与えられる私たちキリスト者は、キリストとともにその座につかせていただくのです。
 3章22節を読みます。

3:22 耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』」

 ここまで見てきた7つの教会の状況は、当時実際に見られたものであったのでしょう。
 そして、これらの状況は、今日の教会でも見られるでしょうし、また、当時から今に至るまで、常にどこかの教会で見られ、繰り返されてきたことであったと思われます。
 これまで見てきた7つの教会は、全時代の全教会を代表しているのです。

 サルデスとここ、ラオデキヤでは、小さな火が今にも消えそうに揺らいでいる状態でした。
 エペソでは、光は依然として輝いてはいるが、その炎は小さくなってきていました。
 ペルガモとテアテラでは、光は輝いているが、本来持つべき明るさが失われていました。しかし、スミルナとヒラデルヒヤでは、光を掲げる教会の真実が証されていました。

〈今回の学び〉
 すべての教会に共通する大きな課題は、それぞれの教会がまことの光を掲げる教会となっているかどうか。主から委ねられた働きに忠実であるか否かということでしょう。
 別の言い方をすれば、教会が、イエス様からゆだねられている福音を堅く持ち続けて証ししているかどうかということです。
 マタイによる福音書28章19-20節を読みます。

28:19 それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、
28:20 あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。

 マタイによる福音書28章19-20節を丁寧に見ると、私たち教会は、
 1)伝道して弟子をつくる。
 2)バプテスマを施し、イエス様のお体である教会に加わる弟子を増やして教会を建設する。
 3)御言葉に従うように教えて、教会がイエス・キリストを証しする光となることを期待されているのです。

 教会がまことの光、イエス・キリストを掲げる教会となっているか、それが、この7つの教会の御使いにあてられた手紙に共通する課題、そして、全世界の全世代における教会の課題なのです。

 それは、教会がこの世にありながら、主に忠実なものとなっているということに尽きるのです。
 この世にあって、キリストをこの世的なものとし、イエス・キリストを拒ませようとする誘惑は、
 1)反キリスト的迫害(投獄、みち、猛獣、火あぶり)←ユダヤ人の告発
 2) 1)に関連して、皇帝礼拝。1)はユダヤ人の告発がメイン、2)は、ローマ政府がメイン
 3)世俗的価値観な快楽、不品行な祝宴への参加、そのような明確なものでなくても、いつの間にか文化として入り込んでくる不品行や偶像礼拝、さらに私たちが見える者として目を奪われやすい、世の富、地位など

 しかし教会は、当時においても今日でもこの世に置かれています。この誘惑にさらされています。でも私たち教会は、この世の闇の中に輝かなければならないのです。

 こうして、7つの教会の御使いあての手紙を見てきた私たちは、さらに重く、また忠実にこのお言葉をいただき、噛みしめるものとなるにちがいありません。

2024年3月15日
尚徳牧師の素直に読む【ヨハネの黙示録_10】
タイトル:「ラオデキヤにある教会の御使に」
牧師:香川尚徳