ショートメッセージ【マラキ①】

マラキ書1章
(宮の犠牲の軽視)

1、マラキ書の背景
2、ヤコブへの愛
3、エサウ(エドム人)のような軽視
 

 本日から4回にわたってマラキ書を見ていきます。
 マラキ書は、預言者マラキが書いたとされています。ただし、今までのように人物に焦点を当てて、マラキと言う人物を見るには、情報が少ないので、マラキ書の書簡を概観したいと思います。
 マラキ書を概観する理由は、その時代の民の信仰を見ることです。その事が、次に学ぶ中間時代、さらには、新約聖書の学びへと繋がるからです。では、よろしくお願いいたします。

1、マラキ書の背景
執筆年代:
 捕囚期以降、マラキの年代は紀元前450-400年(ハガイ、ゼカリヤの約100年後のエズラとネヘミヤの時代と言われています)
著  者:
 預言者マラキ(1章1節)
執筆目的:
 人々を自らの罪と直面させ、神さまとの関係を回復させる。
宛  先:
 エルサレムにいるユダヤ人と、すべての神の民
背景/舞台:
 ハガイ、ゼカリヤ、マラキはバビロン捕囚後のユダ(南王国)への預言者。
 神の民は、バビロンからエルサレムへ帰りました。彼らは、神殿を再建するはずでしたが、その計画から外れたため、ハガイとゼカリヤを立てて神殿を完成するように民を説得し激励しました。
 マラキの働きは、神殿のいけにえの軽視、礼拝を冒涜した民たち、異邦人との結婚、特に不誠実な祭司たちへ言及しました。

 時は、ハガイとゼカリヤが預言をした時から、百年前後の時が経った後のことです。
 紀元前515年頃に神殿の工事が完成し、神殿における礼拝も回復しました。しかし、その後、礼拝の奉仕において不従順になっていきました。

 マラキが預言をした頃は、エズラがエルサレムに帰還した458 年、ネヘミヤが帰還した 444 年の頃と重なっていますので、当時の様子はエズラ記やネヘミヤ記の中で見ることができます。まずエズラが、ユダヤ人たちの中で外国人と結婚しているという罪の報告がありました。(エズラ記9章1-4節)。

 そして、ネヘミヤ記 13 章には、大祭司エリアシブが、ネヘミヤのエルサレム再建工事の協力に反対しました、地元の有力者トビヤと裏で結託していたことが暴かれています。
 神の宮に、トビヤの部屋が用意されました(ネヘミヤ記13章1-9節)。そして、イスラエル人が十分の一の献げ物を怠ったので、宮の仕事に従事するレビ人に対する支給が滞って、それでレビ人や歌い手たちが、それぞれの自分の農地に逃げ去ったことが書かれています(ネヘミヤ記13章10-14節)。それから、安息日における商売がありました。(ネヘミヤ記13章15-22節)。
 主の礼拝を怠り、商売をしていました。さらに、ユダヤ人の中での雑婚が発覚して、なんと、祭司エリアシブの息子が、エルサレム再建の反対したもう一人の有力者サンバラテの娘と縁故関係にあったことが発覚しました(ネヘミヤ記13章28節)。

 バビロン捕囚の後、帰還したイスラエルの民はペルシヤの支配下にありました。ですから、もうダビデの継承による王国は存在しません。
 唯一、イスラエルの民を保っていたのは祭司の務めでした。それは、神の民が、神の民らしくあるために重要な務めだったのです。神さまがイスラエルをシナイ山のふもとで召された時、彼らを《あなたがたはわたしに対して祭司の国となり、また聖なる民となるであろう》と言われました(出エジプト記19章6節)。
 イスラエルは、祭司が神さまに礼拝をささげ、神さまと交わることによって、神さまが世界に証しされる。という国でした。

 そして、ペルシヤの支配の後はマケドニア、ギリシヤ、エジプトのプトレマイオス王朝、シリアのセレウコス朝と支配が続きました。しかし、紀元前166年にユダヤ人たちは、ユダ・マカベアによって反乱を起こし、独立を勝ち取りました。(マカベアの子孫による統治時代をハスモン王朝と言います)

 105年続いた王朝も紀元前63年にローマ帝国の制圧に屈し、イスラエルはローマ帝国の属州となりました。そして、イエス様が現れた新約時代にまで異邦人の支配は続きます。

 ここは余談ですが、しかし神さまは、教会を建てられました。ご聖霊によって、その祭司の王国を受け継いでいるのです。教会時代の私たちは、キリスト者は祭司なのですね。
 ヨハネの黙示録1章5-6節を読みます。《また、忠実な証人、死人の中から最初に生れた者、地上の諸王の支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。わたしたちを愛し、その血によってわたしたちを罪から解放し、わたしたちを、その父なる神のために、御国の民とし、祭司として下さったかたに、世々限りなく栄光と権力とがあるように、アァメン。》
 祭司の務めを果たすこととは何なのか。見ていきたいと思います。

2、ヤコブへの愛(1-5)
 マラキ書1章1-2節を読みます。

1:1 マラキによってイスラエルに臨んだ主の言葉の託宣。
1:2 主は言われる、「わたしはあなたがたを愛した」と。ところがあなたがたは言う、「あなたはどんなふうに、われわれを愛されたか」。主は言われる、「エサウはヤコブの兄ではないか。しかしわたしはヤコブを愛し、

 主(神さま)が、彼らに語りかけられた初めの言葉が、2節の《「わたしはあなたがたを愛した」》です。
 続いて2節《ところがあなたがたは言う、「あなたはどんなふうに、われわれを愛されたか」。》とあります。

 ユダヤ人たちは、主(神さま)の言葉を心に受け入れていないという指摘です。
 そして、受け入れていないのは、イスラエルの民を選ばれた主(神さま)の愛でした。神さまの選びというのは、私たちの行ないとは関係ないものです。つまり、創造主であられる神さまのご主権によるものです。

 アブラハムもイサクも、その行ないだけを見れば、神から見捨てられてもおかしくない過ちを犯していますが、神さまは一切彼らを咎められず、むしろ祝福して恵みをお与えになられました。そして、主が祝福されたのはヤコブでした。

 先に母の胎から出てきたのはエサウなのに、弟のヤコブは、生まれる前から、神さまの約束の相続者として選ばれていました。そして、ヤコブの人生は、お世辞にも正しいとは言えるものではありませんでした。しかし、神さまはヤコブを嫌うことなく、むしろ彼を祝福し、ご自身を「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と呼ばれました。
 1章3節を読みます。

1:3 エサウを憎んだ。かつ、わたしは彼の山地を荒し、その嗣業を荒野の山犬に与えた」。

 主(神さま)は、《エサウを憎んだ。》という言葉を使われて、彼らを愛していることを強調されました。

 ヤコブとエサウの記事をみると、ヤコブは計算高いところはありましたが、神さまへの信仰心が強かったのに対し、エサウは神さまに対して無頓着でした。ですから、憎たらしいという意味ではありません。「エサウではなくあえてヤコブを愛する」という、強い意思表示をしているのです。
 1章4節を読みます。

1:4 もしエドムが「われわれは滅ぼされたけれども、荒れた所を再び建てる」と言うならば、万軍の主は「彼らは建てるかもしれない。しかしわたしはそれを倒す。人々は、彼らを悪しき国ととなえ、とこしえに主の怒りをうける民ととなえる」と言われる。

 イスラエルとエドムの両民族はバビロンに滅ぼされました。イスラエルは回復しましたが、エドムは荒廃のままです。
(オバデヤ書に、バビロンによってエルサレムが破壊された時に、エドム人がそれを喜んで、苦しむユダヤ人を傍観していた罪が書かれています。そしてエドム人が、大きな岩山で自分たちは安全だと思っていた所へ、バビロンに攻め込まれ歴史の中で消えています。しかし、イスラエルの民は、困難に遭いながらも、確実に神さまに約束されたことが実現している。)
 1章5節を読みます。

1:5 あなたがたの目はこれを見て、「主はイスラエルの境を越えて大いなる神である」と言うであろう。

 それで、《「主はイスラエルの境を越えて大いなる神である」》と、やがて、イスラエルの民たちは感嘆すると仰っています。神さまのお働きは、その地の境を超えて、諸国民に働きかけられるお方です。

3、エサウ(エドム人)のような軽視(創世記25:34 エサウの長子の権)
 ところが、イスラエルの民が、ましてや主との交わりを堅く保たなければならない祭司たちが、主を軽んじていたのです。
 1章6-10節を読みます。

1:6 「子はその父を敬い、しもべはその主人を敬う。それでわたしがもし父であるならば、あなたがたのわたしを敬う事実が、どこにあるか。わたしがもし主人であるならば、わたしを恐れる事実が、どこにあるか。わたしの名を侮る祭司たちよ、と万軍の主はあなたがたに言われる。ところがあなたがたは『われわれはどんなふうにあなたの名を侮ったか』と言い、
1:7 汚れた食物をわたしの祭壇の上にささげる。またあなたがたは、主の台は卑しむべき物であると考えて、『われわれはどんなふうに、それを汚したか』と言う。
1:8 あなたがたが盲目の獣を、犠牲にささげるのは悪い事ではないか。また足のなえたもの、病めるものをささげるのは悪い事ではないか。今これをあなたのつかさにささげてみよ。彼はあなたを喜び、あなたを受けいれるであろうかと、万軍の主は言われる。
1:9 あなたがたは、神がわれわれをあわれまれるように、神の恵みを求めてみよ。このようなあなたがたの手のささげ物をもって、彼はあなたがたを受けいれられるであろうかと、万軍の主は言われる。
1:10 あなたがたがわが祭壇の上にいたずらに、火をたくことのないように戸を閉じる者があなたがたのうちに、ひとりあったらいいのだが。わたしはあなたがたを喜ばない、またあなたがたの手からささげ物を受けないと、万軍の主は言われる。

 傷や病気のある家畜のささげ物は、彼らがその当時の総督にささげなかった物で(8節)、仮に総督にささげるとしたら甚だしい侮辱です。そのひどい傷物の家畜を神さま(神殿)にささげていたのです。むしろ、ささげ物をしない方がましでした(10節)。

 祭司において最も大切なことは「関係」です。神さまと自分自身との関係であり、また、神さまと民たちとの関係です。
 主の前に憩い、その御姿を仰ぎ見、主から聞いて、主に祈り、主と交わりを持つことそのものが関係です。
 7節の《主の台》とは、主に対する祭壇へ献げられる「家畜のいけにえ」のことです。そのささげ物は、律法であるレビ記22章18-20節で明確に規定されていて、無傷で、欠陥があってはいけません。それは、主(神さま)が聖なる方お方だからです。
 レビ記22章18-20節を読みます。

22:18 「アロンとその子たち、およびイスラエルのすべての人々に言いなさい、『イスラエルの家の者、またはイスラエルにおる他国人のうちのだれでも、誓願の供え物、または自発の供え物を燔祭として主にささげようとするならば、
22:19 あなたがたの受け入れられるように牛、羊、あるいはやぎの雄の全きものをささげなければならない。
22:20 すべてきずのあるものはささげてはならない。それはあなたがたのために、受け入れられないからである。

 ペルシヤの総督に会う時に、このような贈り物を受け入れるはずがありません。私たちも、とても重要な人物に会う時に、駄菓子屋で購入したお菓子を持って行くでしょうか。
 渡す相手のことを考えて価値ある物を選びます。しかし、主(神さま)へ献げる物となると、おろそかになるのは、主への敬い、主への恐れがなく、神さまを軽視していることを示すこととなります。また、私たちは、人間関係を重視します。私たちの礼拝は、それ以上の敬いをもって、主(神さま)と交わり、主にへりくだる者でありたいものです。

 「心が大事」と聞きますが、その心の表れが “行ない”。となることが多いです。
 礼拝への思いや行動、そのささげる姿勢に、自分の心がどこにあるかが見えてきます。イエス様は、《あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。》(マタイ 6:21)と言われました。
 マラキ書1章11節を読みます。

1:11 日の出る所から没する所まで、国々のうちにわが名はあがめられている。また、どこでも香と清いささげ物が、わが名のためにささげられる。これはわが名が国々のうちにあがめられているからであると、万軍の主は言われる。

 11節は、預言的です。今このイスラエルの民たちは、神さまを軽視していますが、やがて、国々の間で敬愛される日を神さまは予見しておられます。

2024年3月24日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:戀田寛正

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