ショートメッセージ【イースター】

(贖罪、イエス・キリスト、よみがえり)

1、言葉の定義
2、贖いとさばき
3、救いとは
4、イースター

 キリスト教の有名な出来事のお祝いやイベントで12月のクリスマスがあります。商業施設のクリスマス装飾や自宅でクリスマスツリーなどの装飾をして、プレゼントを渡し、ケーキをいただきますね。寒くなった冬に心温まるイベントとして、すっかり馴染みとなりました。
 最近では日本でも、イースターが欧州文化の一つとして紹介され商業ベースとなり、春のイベントとして取り上げられるようになりました。
 2024年のイースターは、本日3月31日日曜日です。では、あらためてイースターについて見ていきたいと思います。

1、言葉の定義
 (1)イースターとは、
 新聖書教辞典では“復活祭 復活日とも言う”とあります。続けて読むと“キリストの復活を記念する主日であり,教会暦の中では最古の祝日である.ユダヤ教の安息日である土曜日ではなく,「週の初めの日」(使20:7)に礼拝を守るようになったのは,この日が主の復活の記念日であったからである.したがって年ごとの復活祭だけでなく,毎週の日曜日が復活日として覚えられるようになった.”とあります。
 《週の初めの日》について、使徒行伝20章7節を見てみましょう。

20:7 週の初めの日に、わたしたちがパンをさくために集まった時、パウロは翌日出発することにしていたので、しきりに人々と語り合い、夜中まで語りつづけた。

 確かに《週の初めの日》とあります。
 律法では、一週間の最後の日が安息日で土曜日です。ユダヤの人たちは、土曜日に礼拝しますが、イエス様を救い主として信じる者たちは、イエス・キリストの復活を記念して、週の初めの日、日曜日に集まってパンをさいて(最後の晩餐のときにキリストが“パンさき”を行い、弟子たちに命令した)いたのです。
 日曜日の礼拝は、このことから始まっています。

 また、教会が毎年祝う“復活祭の日”について新聖書辞典を見てみましょう。
 復活祭は月日が定まっていない移動祝日である.キリスト教会のうちで,復活祭を最後の晩餐の記述にあるようにユダヤ暦のニサンの月の14日に守るべきであるという人と,その後にくる日曜日にすべきであるという人がいて論争が起った.325年の第1回ニカイア総会議で,復活祭は春分後の最初の満月の直後の日曜日とすると定められた.

 (2)イエス・キリストの復活とは
 新聖書辞典や新キリスト教辞典では、解説が長いので聖書を見ましょう。
 4つの福音書のどれかを見たいのですが、時間の関係上、コリント人への第一手紙15章に要約が書かれていますので15章3-6節前半まで見ます。
 コリント人への第一手紙15章3-6節前半

15:3 わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、
15:4 そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、
15:5 ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。
15:6 そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。

 死んだイエス・キリストが、三日後によみがえられたことが復活と言い、その事をお祝いしてイースター(復活祭)があるのです。

 しかし、この一連の出来事、罪のない神さまの御子であるイエス・キリストが、15章3節にある《わたしたちの罪のために死んだ》のはなぜでしょうか。
 ここで少し、旧約聖書にある律法を見てみましょう。

2、贖いとさばき
 イスラエルの民たちは、奴隷状態にあったエジプトから、神さまとモーセによって導き出されて、しばらくすると律法という法律のようなモノが与えられました。
 そこには、道徳・倫理に関する事、祭儀に関することが書かれていました。その律法に、罪に関する規定があり、律法違反の罪を犯すと罪の贖いのために、家畜をいけにえとしてささげていました。
 レビ記23章26-28節を読みます。

23:26 主はまたモーセに言われた、
23:27 「特にその七月の十日は贖罪の日である。あなたがたは聖会を開き、身を悩まし、主に火祭をささげなければならない。
23:28 その日には、どのような仕事もしてはならない。これはあなたがたのために、あなたがたの神、主の前にあがないをなすべき贖罪の日だからである。

 と定められていました。また、贖罪の日の大祭司の務めについて見てみましょう。
 レビ記16章3-6節、11-14節、18-19節を読みます。

16:3 アロンが聖所に、はいるには、次のようにしなければならない。すなわち雄の子牛を罪祭のために取り、雄羊を燔祭のために取り、
16:4 聖なる亜麻布の服を着、亜麻布のももひきをその身にまとい、亜麻布の帯をしめ、亜麻布の帽子をかぶらなければならない。これらは聖なる衣服である。彼は水に身をすすいで、これを着なければならない。
16:5 またイスラエルの人々の会衆から雄やぎ二頭を罪祭のために取り、雄羊一頭を燔祭のために取らなければならない。
16:6 そしてアロンは自分のための罪祭の雄牛をささげて、自分と自分の家族のために、あがないをしなければならない。

16:11 すなわち、アロンは自分のための罪祭の雄牛をささげて、自分と自分の家族のために、あがないをしなければならない。彼は自分のための罪祭の雄牛をほふり、
16:12 主の前の祭壇から炭火を満たした香炉と、細かくひいた香ばしい薫香を両手いっぱい取って、これを垂幕の内に携え入り、
16:13 主の前で薫香をその火にくべ、薫香の雲に、あかしの箱の上なる贖罪所をおおわせなければならない。こうして、彼は死を免れるであろう。
16:14 彼はまたその雄牛の血を取り、指をもってこれを贖罪所の東の面に注ぎ、また指をもってその血を贖罪所の前に、七たび注がなければならない。

16:18 そして彼は主の前の祭壇のもとに出てきて、これがために、あがないをしなければならない、すなわち、かの雄牛の血と、やぎの血とを取って祭壇の四すみの角につけ、
16:19 また指をもって七たびその血をその上に注ぎ、イスラエルの人々の汚れを除いてこれを清くし、聖別しなければならない。

 1年に1回、罪の赦しについて、このような厳粛な日が設けられていました。
 幕屋、神殿では、大祭司が年に一度、至聖所に入ることが許され務めを果たす日でした。この贖罪の儀式は、全イスラエルのための罪を贖う家畜の血を神さまにおささげして、民が犯したすべての罪の赦しを得るためでした。
 ここはとても重要なポイントで、全イスラエルの贖罪の儀であるということです。

 神さまによってイスラエルは、アブラハムを始祖とし、その家族から民族へと増え、やがて、カナンの地に入り、王が立てられ繁栄しましたが、国は2つに分かれ、その分かれた国は、神さまへの不従順と偶像礼拝、倫理・道徳の欠如が度々ありました。そこで、神さまがお立てになった預言者から再三、警告を受けたにも関わらず、結果、従わないために、神さまのさばきを受け、アッシリア、バビロンに滅ぼされ、民は捕囚されました。

 イスラエルの民は、この間も預言者が立てられ、神さまから警告、励ましを受けていました。多くの年月が経ち、神さまの憐れみによって、イスラエルの民はペルシャのクロス王によって帰還を命じられ、神殿の再建も果たしましたが、100年も経つと神さまへの信仰が薄弱なものとなり、先週からはじまった、マラキ書を見ると、祭壇のささげものは、規定通りの傷のない家畜ではなく、傷や病んでいる獣をささげるありさまでした。

 とうとうイスラエルの民は、約400年間、神さまのお言葉を託される預言者を与えられず、敵国との争いや内紛が続き、やがて、ローマ帝国に支配され、さらに、イスラエル民族の血筋に無い者が王となり閉塞感が漂っていたのです。

3、救いとは
 このような状況から、イスラエルの民たちは、預言者が語っていたメシヤを待ち望むようになったのです。
 そして、その待望のメシヤが人となられ来られました。それが、イエス・キリストなのです。
 そのイエス・キリストは、イスラエルの民のみならず、イスラエルの民から見れば、異邦人も対象に、神の怒りと裁きを一身に負い十字架に磔られたのです。

 本来、北イスラエル王国と南ユダ王国が受けたような“さばき”は、私たちにあって然るべきなのです。
 しかし、神さまの一方的な憐れみによって、神さまの御子であられるイエス・キリストが、なんの罪もないのに十字架に磔られ、殺されたのは、私の身代わりに罪を負い殺されたのだと信じることによって救われるのです。

 その十字架刑ですが、当時、広く普及していたようです。古代エジプト、フェニキヤ、アッシリア、ペルシャなどの地域から発掘されているようです。そして、イスラエルの民、異邦人にとっても最も忌まわしい刑とされていました。
 申命記21章23節を読みます。

21:23翌朝までその死体を木の上に留めておいてはならない。必ずそれをその日のうちに埋めなければならない。木にかけられた者は神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が嗣業として賜わる地を汚してはならない。

《木にかけられた者は神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が嗣業として賜わる地を汚してはならない。》とあるように、イスラエルの民にとって、木にかられることは、神さまにのろわれたことを意味していましたから、磔られたキリストを信じることは、預言者が語ったことを深く深く理解し、神さまのイスラエルの民に対する慈愛を分らないとイエス様を信じられなかったのです。
 つまり、イスラエルが、神さまに犯した罪をイエス様が一身に負って下さったと言うことは、イエス様が、《木にかけられた者は神にのろわれた者だからである。》の通りに、人に代わって《のろわれた者》となり、罪祭の“いけにえ”となり、父なる神さまのさばきをお受けになられ死なれたということです。

 そのキリスト・イエスは、死なれただけではなく、3日後によみがえられたのです。
 ヘブル人への手紙9章25-28節を読みます。

9:25 大祭司は、年ごとに、自分以外のものの血をたずさえて聖所にはいるが、キリストは、そのように、たびたびご自身をささげられるのではなかった。
9:26 もしそうだとすれば、世の初めから、たびたび苦難を受けねばならなかったであろう。しかし事実、ご自身をいけにえとしてささげて罪を取り除くために、世の終りに、一度だけ現れたのである。
9:27 そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっているように、
9:28 キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである。

 これが、“救い”なのです。
 聖書によれば、私たちはアダムとイブの罪によって、その罪の性質を受け継いでいます。イヤだといっても、産まれてきた限り、受け入れなくてはならないことなのです。しかし神さまは、私たちの罪、罪の性質をすべて贖うために、イエス様を犠牲とされたのです。

4、イースター
2024年の春分の日は3月20日水曜日。春分の日あとの最初の満月は3月25日月曜日です。ですから、2024年のイースターすなわち、イエス・キリストの復活を記念する日は2024年3月31日日曜日となります。

 イエス様は、私たちの罪のために死なれただけでなく、3日後によみがえられて、使徒行伝1章3節によると《イエスは苦難を受けたのち、自分の生きていることを数々の確かな証拠によって示し、四十日にわたってたびたび彼らに現れて、神の国のことを語られた。》のです。そして、天に上がられ、父なる神さまと共におられるのです。

 私たちは、今までの生き方を悔いて、心をイエス・キリストへ向けて、イエス・キリストの御言葉を信じることで救われ、希望が与えられるのです。また、神さまの約束を信じ、自分の人生を神さまに委ねていくことで、物事の見方が大局的になり平安を得られます。
 何故って、神さまは何度も聖書で約束されておられます。
 最後に、聖書の有名な箇所の一つ。新約聖書 マタイによる福音書28章20節後半を読みます。

28:20b見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。

 イエス・キリストを頼る者が人生を歩む上で、これほど、心強い御言葉はありません。

2024年3月31日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:戀田寛正

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