ショートメッセージ【マラキ②】

マラキ書2章
(祭司への警告)

1、祭司(レビ人)たちが知るべきこと
2、レビ人との契約
3、離婚倫理の崩れ

 イスラエルの民たちを神さまの方へ、正しく教え導くように任職された祭司たちは(マラキ2章4-7節)、民の心のない態度に対して責任がありました。しかし彼らは、営利的で卑しく腐敗し、「祭司」の職名は、民たちの中で軽蔑の的となっていました。

1、祭司(レビ人)たちが知るべきこと
 2章1-2節を読みます。

2:1 祭司たちよ、今この命令があなたがたに与えられる。
2:2 万軍の主は言われる、あなたがたがもし聞き従わず、またこれを心に留めず、わが名に栄光を帰さないならば、わたしはあなたがたの上に、のろいを送り、またあなたがたの祝福をのろいに変える。あなたがたは、これを心に留めないので、わたしはすでにこれをのろった。

 主である神さまのご命令に聞き従わなければ、“のろわれる”ということは、モーセが申命記27-28章などで書かれています。そして、祭司職にある者たちやイスラエルの民たちが、主である神さまの指示に聞き従わなくなり、主の御名にご栄光を帰さないということであれば、そのように祝福が“のろい”になるということです。
 ここで申命記30章1-4節を読みます。ひとつのパターン(型)が書かれています。

30:1 わたしがあなたがたの前に述べたこのもろもろの祝福と、のろいの事があなたに臨み、あなたがあなたの神、主に追いやられたもろもろの国民のなかでこの事を心に考えて、
30:2 あなたもあなたの子供も共にあなたの神、主に立ち帰り、わたしが、きょう、命じるすべてのことにおいて、心をつくし、精神をつくして、主の声に聞き従うならば、
30:3 あなたの神、主はあなたを再び栄えさせ、あなたをあわれみ、あなたの神、主はあなたを散らされた国々から再び集められるであろう。
30:4 たといあなたが天のはてに追いやられても、あなたの神、主はそこからあなたを集め、そこからあなたを連れ帰られるであろう。

 バビロンに捕囚されたイスラエルの民は、神さまがイスラエルの度重なる罪のために、この申命記に書かれている、律法の《のろい》が下されたことを痛感したのです。そして悔い改めて以来、イスラエルの民は偶像崇拝を完全に止め、信仰を持っていた者たちは、この律法の「回復(申命記30章3節)」に希望を抱き、帰還を持ち望んだのです。そして、バビロン捕囚から70年後、イスラエルは律法と預言の約束を胸に、イスラエルに帰還し、エルサレムに第二神殿を再建し100年も経つと、この有様です。
 この歴史の事がらから信仰承継の難しさが、お分かりになるかと思います。

 本文に戻ります。祭司たちは、神さまの恵みを受け取り、そしてそれを民に分かち合うことによって、民がその祝福を受けるのですが、祭司たちの腐敗行為は、その祝福の流れを止めることになります。祭司たちが主のご命令に聞き従わず、主の御名に栄光を帰していないので、彼らに神さまの“のろい”が来るということです。
 2章3-4節を読みます。

2:3 見よ、わたしはあなたがたの子孫を責める。またあなたがたの犠牲の糞を、あなたがたの顔の上にまき散らし、あなたがたをわたしの前から退ける。
2:4 こうしてわたしが、この命令をあなたがたに与えたのは、レビと結んだわが契約が、保たれるためであることを、あなたがたが知るためであると、万軍の主は言われる。

 祭壇にいけにえを捧げる時、屠殺する訳ですから、家畜の汚物が出てきます。
 祭りの時に、いけにえの汚物をかけると主は言われています。主である神さまへの感謝、そして喜びと楽しみな祭儀であるはずなのですが、この上ない恥を受けるということです。その事は、《レビと結んだわが契約が、保たれるため》なので必要なことだ。と言われています。本当の祭司の務めを残すために、偽善な祭司は裁かれなければいけないからです。

 後の時代、イエス様が預言されたことですが、当時、民の羊飼いであるはずの祭司長たちが、その羊である民たちを養わず、自分たちのことだけ考え、ローマに蜂起したため、ローマ軍によって神殿が破壊され、イスラエルの民たちは世界中に散らされてしまいました。
 そのことで、新約聖書に出て来る祭司たち、ユダヤ人の指導者たちは、すっかり汚名を被っています。まるで、《あなたがたの犠牲の糞を、あなたがたの顔の上にまき散らし》ている状態と言えます。

2、レビ人との契約
 次にマラキによって、本当の祭司の姿、本来の祭司の務めが語られます。2章5節を読みます。

2:5 彼と結んだわが契約は、生命と平安との契約であって、わたしがこれを彼に与えたのは、彼にわたしを恐れさせるためである。彼はすでにわたしを恐れ、わが名の前におののいた。

 祭司の務めは、一つ目は、《生命と平安との契約》の遵守です。神さまの生命に与り、そして神さまの平和をもたらします。2つ目に、《わたしを恐れ、わが名の前におののいた。》です。心の奥底から主である神さまへの畏怖の念、罪深い者たちが、主のその聖さに触れて、恐れおののくことです。
 2章6節を読みます。

2:6 彼の口には、まことの律法があり、そのくちびるには、不義が見られなかった。彼は平安と公義とをもって、わたしと共に歩み、また多くの人を不義から立ち返らせた。

 3つ目の務めは、《まことの律法》です。神さまの真理をまっすぐに伝えることです。4つ目に《不義》がなく、《平安と公義とをもって、わたしと共に歩み、》とあります。公正かつ不公平がないことです。5つ目は《多くの人を不義から立ち返らせた。》です。民が神さまの忌み嫌う態度と姿勢を反省し、神さまに聞き従う悔い改めに導かれる務めを果たせば、祭司の職務を全うしたと言えるでしょう。
 2章7節を読みます。

2:7 祭司のくちびるは知識を保ち、人々が彼の口から律法を尋ねるのが当然である。彼は万軍の主の使者だからだ。

 6つ目の務めは、《知識を保》つことです。神さまについての知識を堅持することです。人々は、その神さまの知識を堅持した教えを祭司の口を通して聴きます。
 これが、祭司職の本来の姿です。《万軍の主の使者》メッセンジャーです。ちなみにマラキの名前の意味は、“主の使い”です。3章1節にある《わたしはわが使者》です。
 2章8-9節を読みます。

2:8 ところが、あなたがたは道を離れ、多くの人を教えてつまずかせ、レビの契約を破ったと、万軍の主は言われる。
2:9 あなたがたはわたしの道を守らず、律法を教えるに当って、人にかたよったがために、あなたがたをすべての民の前に侮られ、卑しめられるようにする」。

 祭司の腐敗によって受ける“のろい”は、《多くの人を教えてつまずかせ》ることです。それは、公正に教えるのではなく、偏向的な教えをしているということです。
 つまり、主である神さまにお尋ねするのではなく、人の顔をうかがっていることです。一般社会でも言えますが、人に媚びる祭司や教師は、いずれ、人々から軽蔑されるようになります。

3、離婚倫理の崩れ
 2章10-12節を読みます。民の神さまへの不誠実な出来事が記されています。

2:10 われわれの父は皆一つではないか。われわれを造った神は一つではないか。なにゆえ、われわれは先祖たちの契約を破って、おのおのその兄弟に偽りを行うのか。
2:11 ユダは偽りを行い、イスラエルおよびエルサレムの中には憎むべき事が行われた。すなわちユダは主が愛しておられる聖所を汚して、他の神に仕える女をめとった。
2:12 どうか、主がこうした事を行う人をば、証言する者も、答弁する者も、また万軍の主にささげ物をする者をも、ヤコブの幕屋から断たれるように。

 人は、神さまとの関係があり、そして神さまが最初に男を造り、《「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。》(創世記2章18節)とされ、女を造り、神さまが、二人を一体(創世記2章24節)にしたというのが結婚です。
 これは、神さまとの関係、祭司のあり方について基礎や核となる部分です。

 神さまは、《われわれの父は皆一つではないか。われわれを造った神は一つではないか。》と仰っておられます。神さまと人との関係は一対一なのです。一つに結ばれた間柄です。これを破棄する行為は、どんなに酷い裏切り行為であるかを、神さまは指摘しておられるのです。

 そして、軽率に異教の女をめとるということは、ヤコブの幕屋、イスラエルの家を引き裂く行為であり、その者が断たれなければいけません。
 2章13-14節を読みます。

2:13 あなたがたはまたこのような事をする。すなわち神がもはやささげ物をかえりみず、またこれをあなたがたの手から、喜んで受けられないために、あなたがたは涙と、泣くことと、嘆きとをもって、主の祭壇をおおい、
2:14 「なぜ神は受けられないのか」と尋ねる。これは主があなたと、あなたの若い時の妻との間の、契約の証人だったからである。彼女は、あなたの連れ合い、契約によるあなたの妻であるのに、あなたは彼女を裏切った。

 神さまからの祈りの答を得ようと、民は、悲しみの表現をするが、《「なぜ神は受けられないのか」》と嘆くのではなく、自らを省みて、神さまに対する行為を嘆くべきだったのです。
 この当時、離婚は男性によってのみ行われていました。妻に不誠実であり、神さまの前の結婚の契約を無視し、家庭崩壊が起きて、主を愛する信仰心の篤い子どもを育てるという目的が反故にされてしまったのです。イスラエルの民にとって、結婚は契約であり、主が、その証人です(創31:50、箴2:17)。ですから、男性がその妻に不忠実であったというだけでなく、結婚の契約と生活が神さまとの一致を体現するものなのです。

 注目すべき点は、それでも祭司たちが礼拝を行なっていたということです。神さまは、偽善の礼拝を受け入れません。
 2章15-16節を読みます。

2:15 一つ神は、われわれのために命の霊を造り、これをささえられたではないか。彼は何を望まれるか。神を敬う子孫であるゆえ、あなたがたはみずから慎んで、その若い時の妻を裏切ってはならない。
2:16 イスラエルの神、主は言われる、「わたしは離縁する者を憎み、また、しえたげをもってその衣をおおう人を憎むと、万軍の主は言われる。ゆえにみずから慎んで、裏切ることをしてはならない」。

 この箇所を読んで、マルコによる福音書10章6-9節を思い出された方も多いかもしれません。(しかし、天地創造の初めから、… 神が合わせられたものを、人は離してはならない」。)

 《一つ神は、われわれのために命の霊を造り、これをささえられたではないか。》と、マラキは語っています。新改訳2017では、《神は人を一体に造られたのではないか。》と訳されていますが、つまり、肉体が結び合うだけでなく、霊も主にあって一つになるので、それを引き離すことは、《しえたげ》に等しいのです。そして、15節の《神を敬う子孫》とあるのは、主を恐れる夫婦の間に生まれた子のことです。神さまを恐れる子孫を離婚によって絶やすな。という警告です。そして、主は繰り返し《みずから慎んで》裏切るな。と言われます。
 2章17節を読みます。

2:17 あなたがたは言葉をもって主を煩わした。しかしあなたがたは言う、「われわれはどんなふうに、彼を煩わしたか」。それはあなたがたが「すべて悪を行う者は主の目に良く見え、かつ彼に喜ばれる」と言い、また「さばきを行う神はどこにあるか」と言うからである。

 マラキは、彼らに言います。《主を煩わした》と。新改訳2017、新共同訳では《疲れさせた》と訳されています。原語を見ますと「 הוֹגַעְתֶּ֤ם 」ホーガゥテム。と読み。語根は「יגע」で、「労苦させる」、「疲れ果てさせる」と言う意味です。神さまは、イスラエルに対して、とことん忍耐を持っておられることが、この原語からわかるのです。

 祭司たちは、開き直ったのか。罪の深みに入り鈍感の極みなのか。恐れを知らない者たちの発する言葉は限度を知りません。

 私たちも、神さまへ不誠実や不信仰により状況が悪くなった時、立ち止まって、心の中と行動を点検することは大切です。神さまへの背信は、無意識に行ってしまっているのです。

2024年4月7日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:戀田寛正

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 教会は、人がこの世に生まれた時から天に召される時まで、すべての時が神の導きと祝福の内にあることを実感するところです。そして、聖書は人生の処方箋とも言えます。人生に行き詰まりを感じることや、疲れをおぼえる時は、先ず休むことです。明日のことは、明日にならないとわかりません。明日に備えてグッスリ眠るほうが健康的です。
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