ショートメッセージ【マラキ③】

マラキ書3章
(主のきよめ)

1、使者の派遣
2、十分の一のささげもの
3、互いに語り合う者たち

1、使者の派遣
 3章は、腐敗した祭司の務めに対して、主なる神さまが、使者を遣わすことを預言されます。マラキ書3章1節を読みます。

3:1 「見よ、わたしはわが使者をつかわす。彼はわたしの前に道を備える。またあなたがたが求める所の主は、たちまちその宮に来る。見よ、あなたがたの喜ぶ契約の使者が来ると、万軍の主が言われる。

 《見よ、》という言葉からはじまっています。4 章も1節に《見よ、》とあります。
 神さまが、この状況に対して裁きを行なわれるのです。ここに書かれているのは、働きが異なる2種類の使者です。
 1人目は、《彼はわたしの前に道を備える。》使者です。

 マラキ自身が、“主の使い”の通り道を整えていると言えます。
 福音書では、“バプテスマのヨハネ”が、この預言を成就させたことが書かれています。この箇所が引用され、《バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマを宣べ伝えていた。》(マルコ伝1章4節)とあります。ですから、福音書はマラキ書の続きと言えます。

 その福音書は、マラキがマラキ書を書いてから、四百年経っての出来事なのですが、神さまがヨハネを遣わされて、ようやく預言者たちが語っていた時代がやってきたのです。

 そして、もう一人の使者がいます。
 この方は、主イエス・キリストご自身です。そして神さまが《その宮に来る。》というのは、イエス様が神殿で宮清めを行われた時に実現しました。イエス様の初期ユダヤ伝道のときでした。ヨハネによる福音書 2章13-22節に書かれています。次は、十字架につけられる最後の週にです。

 あと、《契約の使者》とありますが、おそらくエレミヤ書31章31-40節の新しい契約のことでしょう。主なる神さまの新しい契約の約束を成就される方が来られるということです。マラキ書3章2節を読みます。

3:2 その来る日には、だれが耐え得よう。そのあらわれる時には、だれが立ち得よう。彼は金をふきわける者の火のようであり、布さらしの灰汁のようである。

 《その来る日には》は、主の再臨のことを指していると考えられます。4章で終わりの日についてマラキは語ります。
 《彼は金をふきわける者の火のようであり、布さらしの灰汁のようである。》と、神さまは語られますが、滅ぼすために来られるのではなく、今でいう懲罰と、清めるために来られるということです。
 3章3-4節を読みます。

3:3 彼は銀をふきわけて清める者のように座して、レビの子孫を清め、金銀のように彼らを清める。そして彼らは義をもって、ささげ物を主にささげる。
3:4 その時ユダとエルサレムとのささげ物は、昔の日のように、また先の年のように主に喜ばれる。

 神さまは、レビ人を清めます。神さまは祭司の国の再建をなさるのですが、《彼らは義をもって、ささげ物を主にささげる。》のです。それは、神さまの正義を行なっているという捧げ物であり、それは、《昔の日のように、また先の年のように主に喜ばれる。》とあります。
 アベルのささげ物、ノアのささげ物、そして、アブラハムの時より、祭壇で、“いけにえ”が捧げられ、ダビデが、主にささげた“いけにえ”がありました。ダビデは王でしたが、祭司のように主の御前に出て、主を求めることに熱心でした。

 ダビデは、祭司ではありませんでしたが、彼の政治には、神の国の原型があったといえます。ダビデがささげたのは、動物のいけにえ以外に、賛美のささげもの、従順のささげもの、感謝のささげもの、喜びのささげもの、そして、義のささげものがありました。詩編を読むと、そのようなダビデのささげものが書かれています。
 3章5節を読みます。

3:5 そしてわたしはあなたがたに近づいて、さばきをなし、占い者、姦淫を行う者、偽りの誓いをなす者にむかい、雇人の賃銀をかすめ、やもめと、みなしごとをしえたげ、寄留の他国人を押しのけ、わたしを恐れない者どもにむかって、すみやかにあかしを立てると、万軍の主は言われる。

 神さまは裁きのため、ご自身が神さまを恐れない者らに近づき、律法に逆らい偽善者たちの罪を速やかに告発する。と言われています。神さまは、神さまの共同体の隠れたものを明らかにされます。そして、主を恐れない部分を取り除かれるのです。
 3章6-7節を読みます。

3:6 主なるわたしは変ることがない。それゆえ、ヤコブの子らよ、あなたがたは滅ぼされない。
3:7 あなたがたは、その先祖の日から、わが定めを離れて、これを守らなかった。わたしに帰れ、わたしはあなたがたに帰ろうと、万軍の主は言われる。ところが、あなたがたは『われわれはどうして帰ろうか』と尋ねる。

 主なる神さまは、それでも彼らをお見捨てになりません。
 6節《主なるわたしは変ることがない。》だから、イスラエルの民は《滅ぼされない。》のです。ここで、《わたしに帰れ、》と命じられ、《わたしはあなたがたに帰ろう》と、主なる神さまから歩み寄られ、彼らは、神さまのところに戻れるようにされます。しかし、なんと彼らは《『われわれはどうして帰ろうか』》と、道理を欠いた何とも言えない質問をしています。

 “いけにえ”をささげながらも、主なる神さまから心が離れてしまっている度合いがわかる言及です。彼らは、どう悔い改めたらよいのか、分からないのでしょう。

2、十分の一のささげもの
 3章8-9節を読みます。

3:8 人は神の物を盗むことをするだろうか。しかしあなたがたは、わたしの物を盗んでいる。あなたがたはまた『どうしてわれわれは、あなたの物を盗んでいるのか』と言う。十分の一と、ささげ物をもってである。
3:9 あなたがたは、のろいをもって、のろわれる。あなたがたすべての国民は、わたしの物を盗んでいるからである。

 神さまは、大変厳しい指摘をされ《あなたがたは、わたしの物を盗んでいる。》と言われます。この指摘は、大きな罪です。悔い改めが必要です。しかし、民の心は鈍感になっています。ですから、《『どうしてわれわれは、あなたの物を盗んでいるのか』》と答えたのです。
 そして、民の問いかけに対して、《十分の一と、ささげ物をもってである。》と、主は言われました。

 十分の一のささげ物の原型は、アブラハムのメルキゼデクに対するささげ物です(創世記14章18-20節)。メルキゼデクは、サレムの王であり、いと高き神の祭司でした。
 アブラハムは甥ロトと財産一式を取り返し、帰ってきくると、メルキゼデクがアブラハムに現れて、《願わくは天地の主なるいと高き神が、/アブラムを祝福されるように。》(創世記14章19節)と祈られたので、《アブラムは彼にすべての物の十分の一を贈った。》のです。
 ささげる割合が十分の一です。
 メルキゼデクが、イエス様の型であることをヘブル人への手紙5章6節~7章17節に書かれていますので、後でご覧ください。

 十分の一の献げ物には、霊的な祝福があり、また実質的な恵みの働きがあります。申命記14章22-29節には、収穫の十分の一を幕屋に携えて、《…あなたの神、主の前でそれを食べ、家族と共に楽しまなければならない。》(14:26)と書かれています。

 これは“主の礼拝によってお献げするものは、神の民は自分たちで楽しむことができる”という律法です。主である神さまに、おささげすることによって、主の共同体の中で、他者も自分もその恩恵をいただき、しかも、主との交わりの中で、そのささげ物を楽しむことができるのです。
 3章10-12節を読みます。

3:10 わたしの宮に食物のあるように、十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさいと、万軍の主は言われる。
3:11 わたしは食い滅ぼす者を、あなたがたのためにおさえて、あなたがたの地の産物を、滅ぼさないようにしよう。また、あなたがたのぶどうの木が、その熟する前に、その実を畑に落すことのないようにしようと、万軍の主は言われる。
3:12 こうして万国の人は、あなたがたを祝福された者ととなえるであろう。あなたがたは楽しい地となるからであると、万軍の主は言われる。

 10節の《これをもってわたしを試み、》という言葉は、11-12 節にある祝福の約束が前提です。

 申命記6章16節に《あなたがたがマッサでしたように、あなたがたの神、主を試みてはならない。》とあるように、神さまがイスラエルの民の信仰をみるために、試されることはあっても、イスラエルの民は、本来、主である神さまを試すようなことはしてはいけないのです。
 しかし神さまは、祝福をするために、その《試み》を、神さまから仰っているのです。
 それは、レビ人である祭司が、まっとうな仕事をするためです。レビ人が、教えること、礼拝を導くことに専念できるようにすることです。

 神さまの前に出ること自体は霊的な奉仕ですが、民がささげる十分の一の一部の収穫は、レビ人である祭司の経済的な必要を満たすために用いるのです。

 祭司たちが、祭儀を執り行い、祈りと御言葉に専念することができますから、民ひとりひとりの恩恵となるのです。

3、互いに語り合う者たち
 これまでの約束を聞いても、彼らは頑なです。3章13-18節を読みます。

3:13 主は言われる、あなたがたは言葉を激しくして、わたしに逆らった。しかもあなたがたは『われわれはあなたに逆らって、どんな事を言ったか』と言う。
3:14 あなたがたは言った、『神に仕える事はつまらない。われわれがその命令を守り、かつ万軍の主の前に、悲しんで歩いたからといって、なんの益があるか。
3:15 今われわれは高ぶる者を、祝福された者と思う。悪を行う者は栄えるばかりでなく、神を試みても罰せられない』」。
3:16 そのとき、主を恐れる者は互に語った。主は耳を傾けてこれを聞かれた。そして主を恐れる者、およびその名を心に留めている者のために、主の前に一つの覚え書がしるされた。
3:17 「万軍の主は言われる、彼らはわたしが手を下して事を行う日に、わたしの者となり、わたしの宝となる。また人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。
3:18 その時あなたがたは、再び義人と悪人、神に仕える者と、仕えない者との区別を知るようになる。

 読むと解説は必要ないですね。
 イスラエルの民は、十分の一のささげ物に関する神さまの約束を信じなかったのです。そして彼らは、金銭と労力を神さまにささげることは無駄であると考えたようです。

 16-17節は、緊張感が緩まる箇所です。背信の時代に、主を恐れ、主の御名を尊び、互いに励まし合う忠実な少数の者を17節で、《彼らはわたしが手を下して事を行う日に、わたしの者となり、わたしの宝となる。》と、主は宣言されています。そして、《…わたしは彼らをあわれむ。》と慈しんで下さっています。この憐れみの箇所は、マラキのように、主を慕う者にとって励みとなります。また、彼らの名を記憶されておられる神さまが描かれています。
 18節は、主権者のお言葉で厳しいものです。伝えるマラキの心情は苦しかったと思います。

2024年4月14日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:戀田寛正

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