素直に読む【ヨハネの黙示録_11】

ヨハネの黙示録4章1-11節
「御座を見よ」

〈はじめに〉 
 これまでのところでは、7つの教会を例にあげて、時には褒め、時には叱責し、時には目を注ぐべき点について、さらに終わりの日に用意されている褒美を示していました。そして 信仰に歩むとはどうすべきなのかを明らかにしていました。

 この4 章からは、終わりの日に向かって、これから何が起ころうとするのかを示そうとしています。
 しかし、その前に、4章と次の5 章において、天上における様子が描かれています。4章では天上の中心人物である神さまについて、また5章においては、今後の出来事の鍵を握る小羊なるキリストについて示されています。
 そうして、これからのことが、信仰者にとっての御国への通り道であることが明らかにされていくのです。

〈本文〉
 今回は4章を見ていきます。 
 では、ヨハネの黙示録4章1-2節を読みます。

4:1 その後、わたしが見ていると、見よ、開いた門が天にあった。そして、さきにラッパのような声でわたしに呼びかけるのを聞いた初めの声が、「ここに上ってきなさい。そうしたら、これから後に起るべきことを、見せてあげよう」と言った。
4:2 すると、たちまち、わたしは御霊に感じた。見よ、御座が天に設けられており、その御座にいますかたがあった。

 ここでヨハネは、幻を見ます。
 当時のユダヤの人々の多くは、天が丸い屋根のように覆いかぶさっていると信じていたようです。その屋根の扉が開かれて、天を見ることができたという幻でした。
 2節では、《御霊に感じた。》とあります。御霊の中にずっと居る状態にあったという理解でよいでしょう。そして、これより先の出来事は、霊的な目や耳で見聞きする幻となります。この幻をヨハネは霊の感覚で受けとめることが出来る状態にあったということでしょう。

 ヨハネは、7つの教会の御使いに宛てた手紙を記し、《耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。》(2章7、11、17、29節、3章6、13、22節))と語って、すべての教会が、神さまの霊の語られることをよく聞くようにと呼びかけました。
 ヨハネの言う通りに、この7つの手紙をよく聞いていた兄弟姉妹が、次にはどういう話なのかと待っていたところに、4章1節《開いた門が天にあった》とはじまります。
 そしてヨハネは《「ここに上ってきなさい。そうしたら、これから後に起るべきことを、見せてあげよう」》と語りかけられています。
 ここで、《見よ、御座が天に設けられており、その御座にいますかたがあった。》というのです。

 この御座は、天の御座であって、契約の箱が地上の幕屋や神殿の至聖所に置かれていたように、この幻の中で、御座が、天にある至聖所にあり、その座に父なる神さまが座しておられる様子を伝えています。
 4章3節を読みます。

4:3 その座にいますかたは、碧玉や赤めのうのように見え、また、御座のまわりには、緑玉のように見えるにじが現れていた。

 神さまは、具体的に描けるようなお方ではないので、ヨハネここでは、父なる神のお姿というより、神さまのご栄光(その光と輝き)を記しているのだと理解できます。
 ここでは、宝石の種類や色よりも、その輝きが強調されていますので、碧玉(へきぎょく)と赤めのうの具体的な説明は省きます。

 神さまの栄光と威厳と聖さによるまばゆいばかりの輝きがあって、御座の周りは、緑玉(りょくぎょく)のように見える虹が出ていたのです。
 この虹は、ノアが見た神さまの約束の虹の象徴かもしれません。契約を重んじられる神さまの真実なお心が見えるようです。
 4章4節を読みます。

4:4 また、御座のまわりには二十四の座があって、二十四人の長老が白い衣を身にまとい、頭に金の冠をかぶって、それらの座についていた。

 この4節の《長老》たちについては諸説あります。
 《白い衣》は、黙示録3章4-5節の《白い衣》、4章4節の《金の冠》は、黙示録2章10の《いのちの冠》として勝利した信仰者の代表であるという説。
 また《二十四》という数字から、イスラエルの十二部族の代表とイエス様の十二弟子で、教会と神の民だという説。
 さらに旧約聖書の時代の祭司は、二十四組に分かれた当番制となっていたので、その祭司の代表という説などです。
 この長老たちが特別な人であるのか、天の御座なので、すべてが天使か、ということにも議論があります。

 個人的に、この長老たちは、イスラエルの十二部族の代表とイエス様の十二弟子として教会と神の民を象徴し、イエス様に贖われたすべての人たちを示していると理解しています。

 《二十四人の長老》は、おそらくキリストの死と復活の前後の時代すべてにおいて、ユダヤ人も異邦人も神さまに贖わられたすべての者を象徴していると思われます。そして、《二十四人の長老》は、神さまに贖わられた者すべてが神さまを礼拝しているのでしょう。

 黙示録の2章から3章では、ローマ帝国の威を借りたユダヤ人たちが、キリスト者やその教会を迫害していたことを見ました。
 しかし、この幻によれば、今キリスト者を迫害しているユダヤ人も、神さまの約束どおりに救われて、キリスト者と共に同じ神さまを天で礼拝しているのです。

 神さまに守れない約束はないこと、神さまに不可能がないことをあらためて示されています。
 当時、イエス様を信じる者にとって困難な状況にありましたが、この手紙の朗読を聞いたすべてのキリスト者が、大いに励まされたことでしょう。そして、今の私たちへの励ましでもあります。
 4章5節前半を読みます。

4:5a 御座からは、いなずまと、もろもろの声と、雷鳴とが、発していた。

 この《いなずまと、もろもろの声と、雷鳴》は、もちろん御座からではなく、御座におられるお方からのものです。これは聖なる者だけが近くに立つことを許される威厳に満ちた神さまの描写です。神さまの崇高さ、尊厳、真実、聖さであって、神さまが神さまであられる有様そのものが示されています。
 4章5節後半を読みます。

4:5bc また、七つのともし火が、御座の前で燃えていた。これらは、神の七つの霊である。

 これは、すでに見た通り、ご聖霊のことです。《燃えていた》とは、激しく活動しているさまです。信仰者一人一人に内住してくださる、助け主としての働きかけが、終末の時まで変わることなく、火が燃えるように活発に働きつづけてくださることが伝えられています。
 4章6節を読みます。

4:6 御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。御座のそば近くそのまわりには、四つの生き物がいたが、その前にも後にも、一面に目がついていた。

 《水晶に似たガラスの海のようであった》と言うのが何を意味しているのかは正確に知ることはできません。
 ガラスの海ではなく、《ガラスの海のようであった》というのですから、水晶の輝きのようなものが、海のように広大な広がりを持ち、御座の前に広がっていたと言うことです。それは、一点の影のない状況です。つまり一切の汚れが存在しない様子です。
 「キリストによって罪の汚れを取り除かれたあなた方は、この場に立つことができる。あなた方が招かれているのは、この場所です。」と言われているのでしょう。
 4章7-9節を読みます。

4:7 第一の生き物はししのようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人のような顔をしており、第四の生き物は飛ぶわしのようであった。
4:8 この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その翼のまわりも内側も目で満ちていた。そして、昼も夜も、絶え間なくこう叫びつづけていた、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者にして主なる神。昔いまし、今いまし、やがてきたるべき者」。
4:9 これらの生き物が、御座にいまし、かつ、世々限りなく生きておられるかたに、栄光とほまれとを帰し、また、感謝をささげている時、

 エゼキエル書1章と10章にも同じような生き物が登場します。比較すると、違う点もあるのですが、黙示録のこの生き物もエゼキエル書10章に登場するケルビムと考えて良いのではないかと思います。
 二十四人の長老が、イエス様にあって贖われたすべての人を象徴していたように、このケルビムはすべての生き物の象徴なのでしょう。

 彼らが呪われた姿となったのは、彼ら自身のことではなく、管理を任された人が罪を犯したからでした。そして、今か今かと贖われる時を待っているのです(ローマ8章)。彼らは、罪ある我々よりも、はるかに、神さまをよく知っており、その神さまに栄光とほまれとを帰し、また、感謝をささげています。

 《「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者にして主なる神。昔いまし、今いまし、やがてきたるべき者」。》と昼も夜も絶え間なく叫び続けるのです。
 そして、その叫びの後には、贖われた人すべてを象徴する長老たちが、天地万物の創造者であられる父なる神さまへ賛美をするのです。
 4章10-11節を読みます。

4:10 二十四人の長老は、御座にいますかたのみまえにひれ伏し、世々限りなく生きておられるかたを拝み、彼らの冠を御座のまえに、投げ出して言った、
4:11 「われらの主なる神よ、あなたこそは、栄光とほまれと力とを受けるにふさわしいかた。あなたは万物を造られました。御旨によって、万物は存在し、また造られたのであります」。

〈今回の学び〉
 本日のヨハネの黙示録4章を通して、私たちは、何を学ぶべきでしょうか。

 4章2節で《見よ、》と言われています。何を見るのでしょうか。
 それは、御座の眩いばかりの輝きと周りの虹です。また、神さまの栄光と威厳と聖さであり、虹は、神さまが必ず約束を守られる、その真実なお心でした。
 そして見るべきは、すべての生き物を象徴するケルビムと、贖われたすべての人を象徴する二十四人の長老が御座におられる神さまを礼拝している姿です。

 これが信仰者の天における姿なのです。この御座と御座にいます神さまがすべての中心であって、その神さまに栄光とほまれとを帰し、また、感謝をささげて、絶え間なく、賛美をするのです。

 万物の中心は御座におられる神さまであり、神さまがすべてをご支配されているのです。
 私たちの家族、人間関係、環境、仕事、試練や困難も、この神さまのご支配の外にあるものは何1つありません。
 このあと、黙示録6章以降では、これまで、人類が経験したことのない凄まじい試練や困難が描写されていきます。
 しかしこの幻は、神さまへの信仰ある者への約束と励ましとなっています。地上で何が起ころうとも、信仰者のこの礼拝の姿は続くのです。神さまを喜ぶ喜びが絶えることはないのです。だからこそ一人でも多く、この喜びの礼拝に加わって欲しい。との神さまの切なるお招きもあるのです。

 だからこそ、《見よ、》すべての中心である御座とそこにいますお方を、これからの凄まじい患難のまえに目に焼き付けておきなさいと言われているのです。

 信仰を与えられている私たちは、この幻によってすべてがこの天上の礼拝につながっていくことを知り、この地上での礼拝を大切にお献げしていくことを学ぶのです。
 そして、礼拝を通して、神さまとの深い結びつきが与えられ、神さまから注がれる御力によって、信仰者としての歩みをすすめていくのです。

2024年4月19日
尚徳牧師の素直に読む【ヨハネの黙示録_11】
タイトル:「御座を見よ」
牧師:香川尚徳