ショートメッセージ【バプテスマのヨハネ②】

ルカによる福音書1章57-80節、3章1-14節、
他、マタイ伝とマルコ伝の数節

(バプテスマのヨハネの働き)

1、バプテスマのヨハネの誕生と成長
2、バプテスマのヨハネの宣教
3、バプテスマのヨハネのメッセージ

1、ヨハネの誕生と成長
 ルカによる福音書1章57-58節を読みます。 

1:57 さてエリサベツは月が満ちて、男の子を産んだ。
1:58 近所の人々や親族は、主が大きなあわれみを彼女におかけになったことを聞いて、共どもに喜んだ。

 ご近所の人々は、エリサベツが子どもを産んだことを、神さまの大きな憐れみとして捉えました。
 不妊で年寄りの女性から男の子が生まれることは、偶然ではなく、神さまが特別に彼女を顧みてくださったのだ。と思ったのです。それで人々は喜びました。御使いが、《彼はあなたに喜びと楽しみとをもたらし、多くの人々もその誕生を喜ぶであろう。》(1章14節)と言った言葉のとおりです。このように、神さまは出産という、ごく自然にある出来事のなかに働かれるのです。こうした何気ないお働きの中に、私たちは神さまを認めることができます。
 1章59-60節を読みます。

1:59 八日目になったので、幼な子に割礼をするために人々がきて、父の名にちなんでザカリヤという名にしようとした。
1:60 ところが、母親は、「いいえ、ヨハネという名にしなくてはいけません」と言った。

 《割礼》は、神さまとアブラハムとの契約のしるし(創世記17:11)であり、共同体への加入の儀式です。そして、命名です。母は、ザカリヤから御使いのことばを聞いていました。ですから、そのことばを信じて、《「いいえ、ヨハネという名にしなくてはいけません」》という命令を守ろうとしています。
 1章61-63節を読みます。

1:61 人々は、「あなたの親族の中には、そういう名のついた者は、ひとりもいません」と彼女に言った。
1:62 そして父親に、どんな名にしたいのですかと、合図で尋ねた。
1:63 ザカリヤは書板を持ってこさせて、それに「その名はヨハネ」と書いたので、みんなの者は不思議に思った。

 最終決断は夫ザカリヤに委ねられます。ザカリヤが書き板に《「その名はヨハネ」》と書くと、命名の背後に不思議なものを感じ取り、《不思議に思った。》のでしょう。それは、エリサベツだけでなく、ザカリヤも同じ名前を書いたからです。ザカリヤも、神さまのご命令を守って、その子をヨハネと名づけたのです。これは、御言葉を行なうことによる証しです。
 1章64節を読みます。

1:64 すると、立ちどころにザカリヤの口が開けて舌がゆるみ、語り出して神をほめたたえた。

 御使いガブリエルは、1章20節で《時が来れば成就するわたしの言葉を信じなかったから、あなたは口がきけなくなり、この事の起る日まで、ものが言えなくなる」。》と言っていましたが、それらが実現してしまったのです。
 ザカリヤは、ガブリエルが告げたエリサベツが男の子を産むことを信じなかったのですが、神さまを賛美したかったのでしょう。しかし、信じなかったことでそれができませんでした。しかし今、口が開けて、賛美することができるようになったのです。
 1章67節を読みます。

1:67 父ザカリヤは聖霊に満たされ、預言して言った、

 1章の68-79節まで、父ザカリヤの言葉が書かれています。本日は、時間の都合上、読みあげませんので後で目を通してください。
 内容は、旧約聖書からの引用が多いのが特徴的で、神さまの「契約」と「あわれみ」を中心にメシヤによる「救い」の到来を詩っています。このザカリヤの言ったことは、旧約時代最後の預言歌で、新約時代最初の預言歌です。
 次に1章80節を読みます。

1:80 幼な子は成長し、その霊も強くなり、そしてイスラエルに現れる日まで、荒野にいた。

 《荒野》は、死海西方に広がるユダの荒野のことです。
 ヨハネは《エリヤ》(ルカによる福音書1章17節)のように《荒野》で整えられます(列王紀上19章4-8節)。
 ルカによる福音書1章17節を読みます。

1:17 彼はエリヤの霊と力とをもって、みまえに先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に義人の思いを持たせて、整えられた民を主に備えるであろう」。

2、バプテスマのヨハネの宣教
 ルカによる福音書3章1-2節を読みます。

3:1 皇帝テベリオ在位の第十五年、ポンテオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟ピリポがイツリヤ・テラコニテ地方の領主、ルサニヤがアビレネの領主、
3:2 アンナスとカヤパとが大祭司であったとき、神の言が荒野でザカリヤの子ヨハネに臨んだ。

 バプテスマのヨハネの宣教は、ローマ帝国第2代《皇帝テベリオ》の治世(紀元14-37年)の《第十五年》、紀元26-29年頃に開始されました。
 《ポンテオ・ピラト》が第5代目の《ユダヤの総督》だったのは26-36年。
 《ヘロデ》は、紀元前4年~紀元39年まで《ガリラヤの領主》を務めたヘロデ・アンテパスで、ヘロデ大王(ルカ1章5節)の息子です。
 《ピリポ》はヘロデの異母兄弟で、母はエルサレムのクレオパトラです。彼はヨルダンの東方を紀元前4年-紀元34年まで統治しました。
 《ルサニヤ》は、レバノン山脈とアンティ・レバノン山脈の中間に位置するアビレネの小領地を管理した国主です。
 《アンナス》は紀元6-15年《大祭司》でしたが、ローマ政府により廃位にされ、総督グラトゥスにより、娘婿の《カヤパ》が就任しました(18-36年在位)。カヤパの就任後もアンナスは大祭司の位置づけのようでした。聖書辞典によると、ユダヤ人の考えでは、大祭司職は終生変わらない。大祭司一族は大祭司と呼ばれていた。実権をにぎっていた。と考えられています。2人が《大祭司であった》とはそのような理由からです。

 1章2節の後半《神の言が荒野でザカリヤの子ヨハネに臨んだ。》は、列王紀上17章2節《主の言葉がエリヤに臨んだ、》と同様に、神さまが旧約聖書の預言者を召した時の言葉です。
 そして、バプテスマのヨハネは、ルカによる福音書16章16節前半部《律法と預言者とはヨハネの時までのものである。》にある通り旧約時代最後の預言者です。

 マタイによる福音書3章4節に、バプテスマのヨハネの姿と食生活の紹介をしていますので、見てみましょう。

3:4 このヨハネは、らくだの毛ごろもを着物にし、腰に皮の帯をしめ、いなごと野蜜とを食物としていた。

 ヨハネの服装は、旧約聖書 列王紀下1章8節の《「その人は毛ごろもを着て、腰に皮の帯を締めていました」。》のように、北イスラエル王国のアハブ王治世時代の預言者エリヤを思い出させる服装で食物は質素でした。
 続けてマタイによる福音書3章5-6を読みます。

3:5 すると、エルサレムとユダヤ全土とヨルダン附近一帯の人々が、ぞくぞくとヨハネのところに出てきて、
3:6 自分の罪を告白し、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けた。

 この記事が並行してマルコによる福音書にも書かれています。
 マルコによる福音書1章5節です。

1:5 そこで、ユダヤ全土とエルサレムの全住民とが、彼のもとにぞくぞくと出て行って、自分の罪を告白し、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けた。

 ヨハネの働きは、“バプテスマのヨハネ”と呼ばれるように、ユダヤの民の罪の告白・悔い改めとバプテスマ(水に浸かることによる“きよめ”の儀式)によって特徴付けられていいます。そして、《エルサレムとユダヤ全土とヨルダン附近一帯の人々が、ぞくぞくとヨハネのところに出てきて、自分の罪を告白し、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けた。》のです。
民の罪の告白ではありません。自分の罪の告白です。

 ルカによる福音書に戻り3章3-6節を読みます。

3:3 彼はヨルダンのほとりの全地方に行って、罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマを宣べ伝えた。
3:4 それは、預言者イザヤの言葉の書に書いてあるとおりである。すなわち/「荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』。
3:5 すべての谷は埋められ、すべての山と丘とは、平らにされ、曲ったところはまっすぐに、わるい道はならされ、
3:6 人はみな神の救を見るであろう」。

 ヨハネに臨んだ神さまの言葉は、罪の赦しのための悔い改めでした。「罪」とは、神さまの指示を聞かないで、自分勝手に振る舞うことです。
 3節の《ヨルダン川のほとり》は、預言者エリヤが最後に訪れた場所で(列王紀下2章7-13節)、ヨハネがエリヤの再来であることを暗示(ルカ1章17節、マタイ17章11-13節)しています。
 4節の《預言者イザヤの言葉の書》からの引用はイザヤ書40章3-5節によります。
 当時、王さまが荒野を旅する時、王の配下の者たちが王に先立って行き、道を平らにしました。そのように、ヨハネはメシヤの先駆けとなり《『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』》(4節)と道を整えます。6節のヨハネの言葉を見ますと《人はみな》ですから、ユダヤ人以外の異邦人も《神の救を見るであろう》と、普遍的すなわち全人類の救いの到来を告げています。
 ルカによる福音書2章31-32節を読みます。

2:31 この救はあなたが万民のまえにお備えになったもので、
2:32 異邦人を照す啓示の光、み民イスラエルの栄光であります」。

3、ヨハネのメッセージ
 マタイによる福音書3章7節を読みます。

3:7 ヨハネは、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けようとしてきたのを見て、彼らに言った、「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、おまえたちはのがれられると、だれが教えたのか。

 群衆に向かって《まむしの子らよ》とインパクトのある発言をしています。マタイによる福音書3章7節よると《ヨハネは、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けようとしてきたのを見て、彼らに言った、「まむしの子らよ、…」》とありますから、群衆の中でも特に、パリサイ人やサドカイ人に《まむしの子らよ》と強い口調で迫っています。
 そして《迫ってきている神の怒りから、のがれられると、おまえたちにだれが教えたのか。》そして、さらに厳しい責めた言葉です。

 このような厳しい言葉を使う理由は、《パリサイ人》は律法を生活に適用するために、ハラカーと呼ばれる口伝律法を生み出しました。中産階級の手工業者を中心とする彼らは、エルサレムの最高議会(サンヘドリン)の党派の一つでした。イエス様の時代、民衆の間では大きな影響力があったようです。
 《サドカイ人》は、エルサレムの神殿の中枢にいる裕福な祭司家系です。中間時代で学んだ時代に形成された、マカベア家を宗教的・政治的立場を支持する党派です。
 指導的立場にあるパリサイ人、サドカイ人が、民へ誤った指導していたのは、まむしの毒のように危険だったのです。

 ルカによる福音書3章8節を読みます。

3:8 だから、悔改めにふさわしい実を結べ。自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく。神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。

 自分は救われたと言っても、以前から神さまの言われることに背を向けた生活を変えなければ、悔い改めをしていないのと一緒です。

 ヨハネは、《実を結べ》と言っています。種が土に落ちれば、自然と芽を吹き出し、成長し実を結びます。同じように、本当に救われたなら、その人は悔い改め続けるので、神さまによって成長し実を結びます。
 しかし、自分は、救われていると思い込んでいるだけなのです。そこでヨハネは、《自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく。神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。》と、ユダヤ人がよくする言い訳を指摘し、最後の審判の時に、先祖アブラハムの徳や神さまの約束に頼ることが出来るとする彼らの特権意識を否定しています。

 ユダヤ人の父祖は、アブラハムです。アブラハムは、子孫を祝福するという神さまの約束をいただきました。それでユダヤ人は、自分たちはアブラハムの子孫だから、自動的に救われると考えていたのです。人間は産まれたかぎり罪の性質を伴っていますから、ユダヤ人でも日本人でも、すべての者は神さまの怒りを招いているのです。
 ルカによる福音書3章9節を読みます。

3:9 斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ」。

 ここでヨハネは、神さまのさばきが間近であることを言っています。悔い改めは、自分がその必要を感じたときに、すぐに行なうものなのです。
 ルカによる福音書3章10-14節を読みます。

3:10 そこで群衆が彼に、「それでは、わたしたちは何をすればよいのですか」と尋ねた。
3:11 彼は答えて言った、「下着を二枚もっている者は、持たない者に分けてやりなさい。食物を持っている者も同様にしなさい」。
3:12 取税人もバプテスマを受けにきて、彼に言った、「先生、わたしたちは何をすればよいのですか」。
3:13 彼らに言った、「きまっているもの以上に取り立ててはいけない」。
3:14 兵卒たちもたずねて言った、「では、わたしたちは何をすればよいのですか」。彼は言った、「人をおどかしたり、だまし取ったりしてはいけない。自分の給与で満足していなさい」。

 メッセージに対する群衆や取税人、兵卒の3種類の人々の反応は共通で、《わたしたちは何をすればよいのですか》(10節、12節、14節)との問いです。ヨハネは、具体的に彼らに指南しました。個人個人が神さまに悔い改め、群衆には、困っている者への積極的な施し。取税人には、ユダヤ同胞へ規定通り誠実と愛ある行い。兵卒(ヘロデの親衛隊?)には、身の程を知り、分相応のところで満足することを説いたのでした。

2024年5月26日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:戀田寛正


ニコラ・プッサン 「ヨルダン川の洗礼者ヨハネ」 (1630)

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