ショートメッセージ【バプテスマのヨハネ③】

ルカによる福音書3章15-17節、マタイによる福音書3章13-15節、他
(バプテスマのヨハネの働きと証し)

1、ヨハネの役割
2、イエス様にバプテスマを授けたヨハネ
3、イエス様に対するヨハネのあかし

1、ヨハネの役割
 ルカによる福音書3章15-17節を読みます。

3:15 民衆は救主を待ち望んでいたので、みな心の中でヨハネのことを、もしかしたらこの人がそれではなかろうかと考えていた。
3:16 そこでヨハネはみんなの者にむかって言った、「わたしは水でおまえたちにバプテスマを授けるが、わたしよりも力のあるかたが、おいでになる。わたしには、そのくつのひもを解く値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。
3:17 また、箕を手に持って、打ち場の麦をふるい分け、麦は倉に納め、からは消えない火で焼き捨てるであろう」。

 バプテスマのヨハネのメッセージが力強かったので、民衆は、この方がキリストではないかと考えました。バプテスマのヨハネは、自分はあくまでも先駆けの者で、自分がしもべとして仕える価値もないほど偉大な方が後に来ると言っています。
 また、人々の悔い改めのための“水のバプテスマ”よりもっと力のある《聖霊と火とのバプテスマ》をキリストは授けると言っています。
 ご聖霊のことは、ヨエル書2章28-29節で預言されているので読みます。

2:28 その後わたしはわが霊を/すべての肉なる者に注ぐ。あなたがたのむすこ、娘は預言をし、あなたがたの老人たちは夢を見、あなたがたの若者たちは幻を見る。
2:29 その日わたしはまた/わが霊をしもべ、はしために注ぐ。

 神さまは人々に、ご聖霊を注ぎ、生活をきよめ、新しい力で満たされるのです。この来るべきメシヤは、麦の“実”の中身の有無にしたがって厳しいさばきを行う。とヨハネは語っています。

 ヨハネの役割はあくまでも、イエス様が地上に人間として来られ、お働きをするにあたってイスラエルの民の霊性(神さまと民との関係)や心を整えるためでした。

2、イエス様にバプテスマを授けたヨハネ
 マタイによる福音書3章13-15節を読みます。

3:13 そのときイエスは、ガリラヤを出てヨルダン川に現れ、ヨハネのところにきて、バプテスマを受けようとされた。
3:14 ところがヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った、「わたしこそあなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたがわたしのところにおいでになるのですか」。
3:15 しかし、イエスは答えて言われた、「今は受けさせてもらいたい。このように、すべての正しいことを成就するのは、われわれにふさわしいことである」。そこでヨハネはイエスの言われるとおりにした。
3:16 イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。

 ヨハネは、イエス様のバプテスマの申し出に対し、《「わたしこそあなたからバプテスマを受けるはずですのに、》(14)と躊躇しています。
 ヨハネによる福音書1章31-34節によると

1:31 わたしはこのかたを知らなかった。しかし、このかたがイスラエルに現れてくださるそのことのために、わたしはきて、水でバプテスマを授けているのである」。
1:32 ヨハネはまたあかしをして言った、「わたしは、御霊がはとのように天から下って、彼の上にとどまるのを見た。
1:33 わたしはこの人を知らなかった。しかし、水でバプテスマを授けるようにと、わたしをおつかわしになったそのかたが、わたしに言われた、『ある人の上に、御霊が下ってとどまるのを見たら、その人こそは、御霊によってバプテスマを授けるかたである』。
1:34 わたしはそれを見たので、このかたこそ神の子であると、あかしをしたのである」。

 バプテスマのヨハネは、イエス様がキリスト(救い主)であるという確信を得たのはバプテスマの後でした。

 ヨハネはこの時点で、イエス様の前に立って自分の罪深さを覚え、当たり前のように、自分こそバプテスマを受ける必要があると思ったのでしょう。しかしイエス様は、ヨハネからバプテスマを受けることが《今》《正しいこと》(つまり神さまの御心にかなうこと)であるとされました(15)。

 この当時、イエス様にとって新しい出発の時、人目を避けた生活から、メシヤとしての公生涯への転換点でした。また、イエス様がヨハネよりバプテスマを受けることにより、ヨハネの働きが、神さまから出たものであることが証明されるのです。

 ここで最も重要なことは、やがて十字架上で人々の罪を負うイエス様であるからこそ、公生涯の初めに悔い改めのバプテスマを受けられ、罪人の立場に立つこと(イザヤ書53:12、コリント人への第2の手紙5章21節)が、罪なき御子なるイエス様が取られた行動でした。

3、イエス様に対するヨハネのあかし
 ヨハネによる福音書3章22節-24節を読みます。

3:22 こののち、イエスは弟子たちとユダヤの地に行き、彼らと一緒にそこに滞在して、バプテスマを授けておられた。
3:23 ヨハネもサリムに近いアイノンで、バプテスマを授けていた。そこには水がたくさんあったからである。人々がぞくぞくとやってきてバプテスマを受けていた。
3:24 そのとき、ヨハネはまだ獄に入れられてはいなかった。

 この箇所の出来事は、バプテスマの《ヨハネはまだ獄に入れられてはいなかった。》は、他の福音書には記されていない時代の出来事です。24節の《ヨハネはまだ獄に入れられてはいなかった。》は、イエス様の12弟子の著者ヨハネは、そのことを伝えたかったのでしょう。

 この記述は、バプテスマのヨハネとイエス様の活動が並行していた時期があることが示されています。
 3章22節の《バプテスマを授けておられた》のは、イエス様がバプテスマを授けておられるように読み取れるのですが、4章2節で《(しかし、イエスみずからが、バプテスマをお授けになったのではなく、その弟子たちであった)》と但し書きが付けられていますので、イエス様の弟子たちがバプテスマを授けていたのでしょう。
 ヨハネによる福音書3章25-26節を読みます。

3:25 ところが、ヨハネの弟子たちとひとりのユダヤ人との間に、きよめのことで争論が起った。
3:26 そこで彼らはヨハネのところにきて言った、「先生、ごらん下さい。ヨルダンの向こうであなたと一緒にいたことがあり、そして、あなたがあかしをしておられたあのかたが、バプテスマを授けており、皆の者が、そのかたのところへ出かけています」。

 《…ひとりのユダヤ人との間に、きよめのことで争論が起った。》のは、26節とのつながりから考えると、きよめについてのユダヤ人との論議には、イエス様のバプテスマについての争論もあったと思われます。
 ヨハネによる福音書3章27-30節を読みます。

3:27 ヨハネは答えて言った、「人は天から与えられなければ、何ものも受けることはできない。
3:28 『わたしはキリストではなく、そのかたよりも先につかわされた者である』と言ったことをあかししてくれるのは、あなたがた自身である。
3:29 花嫁をもつ者は花婿である。花婿の友人は立って彼の声を聞き、その声を聞いて大いに喜ぶ。こうして、この喜びはわたしに満ち足りている。
3:30 彼は必ず栄え、わたしは衰える。

 ここでは再び自分がキリストではなく先駆けとして遣わされたことが強調されています。
 29-30節で、ヨハネは自らを花婿の友人にたとえ、自分が花嫁を迎える花婿自身ではないことを言っています。この比喩は、おそらく自分の立場を花婿の友人にたとえているばかりではなく、度々イスラエルの神さまとその民イスラエルとが結婚関係によってたとえられているように、イエス様の神さまの民イスラエルに対する関係を含んで、暗示しているように読み取れます。
 神さまとイスラエルの民の結婚関係の“たとえ”が書かれているイザヤ書62章1-5節を読んでみましょう。

62:1 シオンの義が/朝日の輝きのようにあらわれいで、エルサレムの救が燃えるたいまつの様になるまで、わたしはシオンのために黙せず、エルサレムのために休まない。
62:2 もろもろの国はあなたの義を見、もろもろの王は皆あなたの栄えを見る。そして、あなたは主の口が定められる/新しい名をもってとなえられる。
62:3 また、あなたは主の手にある麗しい冠となり、あなたの神の手にある王の冠となる。
62:4 あなたはもはや「捨てられた者」と言われず、あなたの地はもはや「荒れた者」と言われず、あなたは「わが喜びは彼女にある」ととなえられ、あなたの地は「配偶ある者」ととなえられる。主はあなたを喜ばれ、あなたの地は配偶を得るからである。
62:5 若い者が処女をめとるように/あなたの子らはあなたをめとり、花婿が花嫁を喜ぶように/あなたの神はあなたを喜ばれる。

 次に、ヨハネによる福音書3章31-36節を読みます。

3:31 上から来る者は、すべてのものの上にある。地から出る者は、地に属する者であって、地のことを語る。天から来る者は、すべてのものの上にある。
3:32 彼はその見たところ、聞いたところをあかししているが、だれもそのあかしを受けいれない。
3:33 しかし、そのあかしを受けいれる者は、神がまことであることを、たしかに認めたのである。
3:34 神がおつかわしになったかたは、神の言葉を語る。神は聖霊を限りなく賜うからである。
3:35 父は御子を愛して、万物をその手にお与えになった。
3:36 御子を信じる者は永遠の命をもつ。御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまるのである」。

 31節ですが、《上から来る者は》《天から来る者は》とあります。同じヨハネによる福音書3章の12-13節、イエス様がユダヤ人指導者ニコデモに語っているところと文脈上、関連しています。
 ヨハネによる福音書3章12-13節を読みます。

3:12 わたしが地上のことを語っているのに、あなたがたが信じないならば、天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか。
3:13 天から下ってきた者、すなわち人の子のほかには、だれも天に上った者はない。

 バプテスマのヨハネの証言で、御子イエス様の天におられるご性質は、3章32節の《見たところ、聞いたところ》を証しするオリジナリティがあります。

 33節《そのあかしを受けいれる者は》、ですが、キリストの告知した内容を確認するのではなく《神がまことであることを、たしかに認めたのである。》ということです。

 36節の《御子を信じる者は永遠の命をもつ。》《永遠の命を持つ》ことが現在形で書かれています。
 単に現在形の未来的用法ということではなく、18節で《彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである》と、さばきが表明されて述べられていることと関連しています。

 再度、ヨハネによる福音書3章35-36節を読みます。

3:35 父は御子を愛して、万物をその手にお与えになった。
3:36 御子を信じる者は永遠の命をもつ。御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまるのである」。

 イエス様が神さまに対し、35-36節のような関係があるのですから、人には2つの選択しか与えられていません。イエス様を信じて、永遠の命を得るか、それとも、受け入れないで神さまにさばかれたままでいるかのどちらかです。イエス様は、天から来られたお方です。つまり、父なる神さまと御子なるイエス様は一つであり、イエス様を受け入れる者は神さまの永遠の命を持ち、受け入れないのであれば神さまに反抗していることになります。

 イエス様は、預言者たちのように神さまから遣わされて、神さまの御霊に満たされていた方ではなく、まさに神ご自身なのです。
 イエス様を信じることによってのみ、新たに生まれることができます。それだけが神さまへの唯一の道なのです。
 バプテスマのヨハネは、そのことを証ししたのです。

2024年6月2日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:戀田寛正


パオロ・ヴェロネーゼ 「キリストの洗礼」 (1580-1588)

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