ショートメッセージ【バプテスマのヨハネ④】

マルコによる福音書6章17-20節、マタイによる福音書11章2-6節、他
(バプテスマのヨハネの預言者の資質)

1、バプテスマのヨハネの投獄
2、バプテスマのヨハネの質問
3、バプテスマのヨハネの死

1、バプテスマのヨハネの投獄
 バプテスマのヨハネの投獄の記事は、マタイによる福音書14章3-5節、マルコによる福音書6章17-20節、ルカによる福音書3章19節、に載っています。
 マルコによる福音書6章17-20節が少し詳しいので読みます。

6:17 このヘロデは、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤをめとったが、そのことで、人をつかわし、ヨハネを捕えて獄につないだ。
6:18 それは、ヨハネがヘロデに、「兄弟の妻をめとるのは、よろしくない」と言ったからである。
6:19 そこで、ヘロデヤはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。
6:20 それはヘロデが、ヨハネは正しくて聖なる人であることを知って、彼を恐れ、彼に保護を加え、またその教を聞いて非常に悩みながらも、なお喜んで聞いていたからである。

 ここで重要な点は、18節を読みますと、バプテスマのヨハネは、世の権力者を恐れず、その罪を真正面から指摘する堂々とした預言者ヨハネの姿です。このヘロデが自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤと結婚したことは、レビ記18章16節、20章21節によれば、姦淫の罪に当たります。19節を読むと、罪を指摘されて恨みを抱き、殺したいと願いながらも果せず、機会をうかがうヘロデヤがいます。そして、この2人の間に立っていたのがヘロデ・アンテパスでした。この続きは、本日の最後にお話しします。

2、バプテスマのヨハネの質問
 獄中にいる、バプテスマのヨハネは、預言書に書かれている本当の《きたるべきかた》、すなわちメシヤはイエス様なのか。確信を持てていないようです。
 マタイ3章16節を読みます。

3:16 イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。

 バプテスマのヨハネは、この出来事を間近で見ていました。さらに言えば、マタイによる福音書3章11節でヨハネはメシヤについて解き明かしをしています。

3:11 わたしは悔改めのために、水でおまえたちにバプテスマを授けている。しかし、わたしのあとから来る人はわたしよりも力のあるかたで、わたしはそのくつをぬがせてあげる値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。

 では、バプテスマのヨハネが、イエス様に使いを遣わし真意を確かめているところを見ていきましょう。マタイによる福音書11章2-6節を読みます。

11:2 さて、ヨハネは獄中でキリストのみわざについて伝え聞き、自分の弟子たちをつかわして、
11:3 イエスに言わせた、「『きたるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」。
11:4 イエスは答えて言われた、「行って、あなたがたが見聞きしていることをヨハネに報告しなさい。
11:5 盲人は見え、足なえは歩き、重い皮膚病人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。
11:6 わたしにつまずかない者は、さいわいである」。

 イエス様が、メシヤ(救い主)であることをいち早く見抜いたヨハネが、改めてイエス様がメシヤであるかどうかを質問したのは、おそらくイエス様の行動が、ヨハネのメシヤ像に合わなかったからでしょう。理由は、ヘロデ・アンテパスによって捕えられて後、イエス様のご介入を期待していたのに、一向に動く気配がないので不安に陥っていたかもしれません。

 イエス様は4節で《行って、あなたがたが見聞きしていることをヨハネに報告しなさい。》と答えられます。それは、イザヤ書35章5-6節《その時、見えない人の目は開かれ、聞えない人の耳は聞えるようになる。その時、足の不自由な人は、しかのように飛び走り、口のきけない人の舌は喜び歌う。それは荒野に水がわきいで、さばくに川が流れるからである。》やイザヤ61章1節《主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、わたしをつかわして心のいためる者をいやし、捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ、》のメシヤ預言がイエス様の働きにおいて成就しているからです。

 これらの預言は、“さばき”とも直結しています。イザヤ35章4節《心おののく者に言え、「強くあれ、恐れてはならない。見よ、あなたがたの神は報復をもって臨み、神の報いをもってこられる。神は来て、あなたがたを救われる」と。》また、イザヤ書61章2節《主の恵みの年と/われわれの神の報復の日とを告げさせ、また、すべての悲しむ者を慰め、》とあります。
 イエス様は、イザヤ書の文脈の一部分が行われていることを話し、ご自身の働きの中に、“さばき”がすでに始まっていると伝えているのでしょう。ですから、《わたしにつまずかない者は、さいわいである》とマタイによる福音書11章6節で話しているのだと考えられます。この御言葉は、ヨハネを励ます言葉です。
 逆に言いますと、福音書の記事はある意味、ユダヤ人にとっての“つまずき”は裏テーマです。
 続けて、マタイによる福音書11章7-11節を読みます。

11:7 彼らが帰ってしまうと、イエスはヨハネのことを群衆に語りはじめられた、「あなたがたは、何を見に荒野に出てきたのか。風に揺らぐ葦であるか。
11:8 では、何を見に出てきたのか。柔らかい着物をまとった人か。柔らかい着物をまとった人々なら、王の家にいる。
11:9 では、なんのために出てきたのか。預言者を見るためか。そうだ、あなたがたに言うが、預言者以上の者である。
11:10 『見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、あなたの前に、道を整えさせるであろう』と書いてあるのは、この人のことである。
11:11 あなたがたによく言っておく。女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかった。しかし、天国で最も小さい者も、彼よりは大きい。

 バプテスマのヨハネは、イエス様に“つまずき”かけていましたが、そのことでバプテスマのヨハネの優れた働きが損なわれることはありません。

 民衆が、荒野に居るヨハネのところに出て行ったのは、神さまの言葉を語る預言者に会うためでした。事実、彼は預言者以上の者でした。
 それは、ヨハネがマラキ書3章1節で《「見よ、わたしはわが使者をつかわす。彼はわたしの前に道を備える。またあなたがたが求める所の主は、たちまちその宮に来る。見よ、あなたがたの喜ぶ契約の使者が来ると、万軍の主が言われる。》と、預言されていた預言者なのです。

 そして、バプテスマのヨハネは、メシヤの先駆けを使命とする預言者だったからです。先ほど読んだ、イエス様(マタイ11章11節)のお語りになった御言葉によると、過去、生を受けたすべての人の中で大きい人物なのです。

 ヨハネの説教は、「神さまのさばきが下るから悔い改めなさい。」というものでした。
 ヨハネは、罪を犯す人間に、神さまがどれほど愛されているかを知らなかったのです。なぜなら、ヨハネは、イエス様の十字架を見ていなかったからです。今の私たちは、イエス様の十字架を知り、神さまの愛がどれほど大きいものか知っています。
 マタイによる福音書11章12-15節を読みます。

11:12 バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。
11:13 すべての預言者と律法とが預言したのは、ヨハネの時までである。
11:14 そして、もしあなたがたが受けいれることを望めば、この人こそは、きたるべきエリヤなのである。
11:15 耳のある者は聞くがよい。

 バプテスマのヨハネを境にして《天国は激しく襲われて》おり、《激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。》(12)とあります。天の御国の宣教に対し、目に見えない霊の世界では、激しい反撃が起こっていることを意味しています。

 ヨハネが天の御国を宣べ伝えてから、多くの反対者が出ました。ヨハネの投獄やイエス様に対する反対。到来した神の国に対するサタンや悪霊による暴力的な反抗と考えていいと思います。

 バプテスマのヨハネこそ、マラキがマラキ書4書5-6節で、預言したエリヤの再来であり、旧約の時代を閉じる者でした。
 15節の《耳のある者は聞くがよい。》は、特に洞察を要する教えの後で繰り返される慣用句として用いられています。(マタイ13章9節、43節、マルコ4章9節、23節など)
 マタイによる福音書11章16-19節を読みます。

11:16 今の時代を何に比べようか。それは子供たちが広場にすわって、ほかの子供たちに呼びかけ、
11:17 『わたしたちが笛を吹いたのに、あなたたちは踊ってくれなかった。弔いの歌を歌ったのに、胸を打ってくれなかった』と言うのに似ている。
11:18 なぜなら、ヨハネがきて、食べることも、飲むこともしないと、あれは悪霊につかれているのだ、と言い、
11:19 また人の子がきて、食べたり飲んだりしていると、見よ、あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間だ、と言う。しかし、知恵の正しいことは、その働きが証明する」。

 イエス様はメシヤ(救い主)として、当時の時代を簡潔にお話しされました。
 ヨハネとイエス様に対する人々の態度は、広い場所で遊んでいる子供たちの姿に似ている。と言われています。彼らは笛を吹いても踊らない。弔いの歌を歌っても泣かない。仲間のことで不平を言う。

 同様に人々は、禁欲的なヨハネを悪霊に憑かれていると難癖をつける一方、およそ禁欲的でないイエス様にも言い掛かりをつける。場面、場面で意見がコロコロ変わる彼らとは対照的に、イエス様の教える知恵の正しさは、それを受け入れた者たちの行いの実によって証明される。ということです。

3、バプテスマのヨハネの死
 マルコによる福音書6章20-29節を読みます。

6:20 それはヘロデが、ヨハネは正しくて聖なる人であることを知って、彼を恐れ、彼に保護を加え、またその教を聞いて非常に悩みながらも、なお喜んで聞いていたからである。
6:21 ところが、よい機会がきた。ヘロデは自分の誕生日の祝に、高官や将校やガリラヤの重立った人たちを招いて宴会を催したが、
6:22 そこへ、このヘロデヤの娘がはいってきて舞をまい、ヘロデをはじめ列座の人たちを喜ばせた。そこで王はこの少女に「ほしいものはなんでも言いなさい。あなたにあげるから」と言い、
6:23 さらに「ほしければ、この国の半分でもあげよう」と誓って言った。
6:24 そこで少女は座をはずして、母に「何をお願いしましょうか」と尋ねると、母は「バプテスマのヨハネの首を」と答えた。
6:25 するとすぐ、少女は急いで王のところに行って願った、「今すぐに、バプテスマのヨハネの首を盆にのせて、それをいただきとうございます」。
6:26 王は非常に困ったが、いったん誓ったのと、また列座の人たちの手前、少女の願いを退けることを好まなかった。
6:27 そこで、王はすぐに衛兵をつかわし、ヨハネの首を持って来るように命じた。衛兵は出て行き、獄中でヨハネの首を切り、
6:28 盆にのせて持ってきて少女に与え、少女はそれを母にわたした。
6:29 ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、その死体を引き取りにきて、墓に納めた。

 ここでは、世の権力の頂点にいるヘロデが登場し、その世の権力者が、キリスト者にどのような関心を抱き、どのようなレベルで接し、最後にはどのような扱いをするのかが、具体的に書かれています。

 ヘロデ・アンテパスの弱さ、ヘロデの責任として責められるべき点が2つあります。
 1つ目は、20節にあるように、ヘロデは、ヨハネが正しい聖なる人であると知りながら、個人的にヨハネの注意に従わなかった。神さまの教えに関心はあるが、自分の生活にそれを当てはめ,正しい方向へと進み出す勇気がない。

 2つ目は、ヘロデヤの娘が、ヘロデヤの勧めによりヨハネの首を踊りの褒美として願った時も、心を痛め(新改訳2017)ながらも、国の要人や部下の手前もあり、その願いを退けることが出来ませんでした。真理や正義よりも、自分のメンツを優先し、人目を気にして、真理・正義をつぶしてしまう弱さでです。

 非常識な行いをして、責められたからと言って、簡単に人の命を奪う時代だったのです。
 創世記で、神さまは人を創造されたことが書かれていますが、人が人の命を奪うことを忌み嫌っていました。
 神さまを慕う信仰心は無いばかりか、神さまが愛された人を、別の人が、自分のことを責められたからと言って権力をふるう時代だったのです。いや、今も保身のために権力を使う人を新聞や報道で見かけますね。
 バプテスマのヨハネは、多くのユダヤ人の心を悔い改めさせ、バプテスマによってきよめ、イエス様の公生涯のお働きの前に、民衆の心を整え、導いた大いなる預言者だったのです。

2024年6月9日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:戀田寛正

【気が楽な教会を探しておられる兄弟姉妹へ】
 以前、日曜日に教会へ通っておられたのに離れてしまった方々へ。理由は、いろいろあると思いますが、それより、「もう一度、教会へ行ってみたいなぁ~」「礼拝へ出たいなぁ~」「賛美したい♪」「人と話すの苦手だけど礼拝に出席したい」と思われている方、ネットで礼拝に出席されませんか。
 ネットの気楽さとコロナ感染予防の観点から、礼拝と聖書の学びが出来るよう準備しました。
 ご興味ある方は、お問合せフォームからご連絡下さい。折り返し、こちらから礼拝のご案内させていただきます。 

【教会や聖書にご興味のある方へ】
 教会は、人がこの世に生まれた時から天に召される時まで、すべての時が神の導きと祝福の内にあることを実感するところです。そして、聖書は人生の処方箋とも言えます。人生に行き詰まりを感じることや、疲れをおぼえる時は、先ず休むことです。明日のことは、明日にならないとわかりません。明日に備えてグッスリ眠るほうが健康的です。
 教会や聖書の書かれていることに、ご興味ある方は、お問合せフォームからご連絡下さい。折り返し、こちらから礼拝のご案内させていただきます。

※当教会は、信仰の有無や長さに関係なく、
 気楽に集いたい方、気楽に聖書を学びたい方に向いています。
※聖書解釈はオーソドックスなプロテスタントですが、
 教理・教条主義ではありません。
※牧師・伝道師の属人的な教会ではありません。
 上下関係は無く、フレンドリーで話しやすい教会です。