素直に読む【ヨハネの黙示録_13】

ヨハネの黙示録6章1-17節
「解かれた封印」

〈はじめに〉
 5章では、終末(この世の終わり)、その終わらせ方についてのすべてを、創造主である神さまから委ねられたイエス様について見ました。そして、今、イエス様に巻物が渡されて、封印を解くタイミングも全てイエス様に任されていました。

 さて、いよいよ6章では、この巻物の封印が解かれます。

 今回の内容を見ていく前に、一つ確認しておかなければならないことがあります。
 それは、空中再臨(携挙)が、黙示録の中でどこに位置付けされればよいかという点です。
 私たちは、このヨハネの黙示録を学びはじめる際に、教会は、患難期の前に空中再臨(携挙)があるとみました。

 6章では、終わりの日の光景が展開されていきます。激しい患難、災害が全人類に臨むことが預言されている内容です。としますと、空中再臨は、黙示録の中では、この患難が臨む6 章の、巻物の封印が解かれていく前におこっているのだと捉えておくのが、自然でしょう。

〈本文〉
 ヨハネの黙示録6章1-2節を読みます。

6:1 小羊がその七つの封印の一つを解いた時、わたしが見ていると、四つの生き物の一つが、雷のような声で「きたれ」と呼ぶのを聞いた。
6:2 そして見ていると、見よ、白い馬が出てきた。そして、それに乗っている者は、弓を手に持っており、また冠を与えられて、勝利の上にもなお勝利を得ようとして出かけた。

 小羊なるイエス様は、その巻物を封じていた7つの封印のうちの一つを解きます。
 その時、4つの生き物の一つが雷のような大声で来なさいと叫ぶと、白い馬に乗った者が、手に弓を持ち、登場します。
 ゼカリヤ書6章1-8節では、4頭の馬が地上に解き放たれて、神の民を圧迫したほかの国々(バビロン、エジプトなど)に報復する幻をゼカリヤが見ています。
 その馬は、神さまの怒りと報復を代行するものとして登場しています。ヨハネのみた幻もゼカリヤ書に関連して、登場する馬と騎手も報復する者、神さまの裁きを行う者とみてよいでしょう。また、ここに登場する4つの生き物については、すでに4章で見た通り、私たちはケルビムと考えることにしました。

 それでは、この白い馬に乗った者とは誰のことを指しているでしょうか。かねてから、これは、イエス・キリストであると言われてきました。
 確かに黙示録19章11-13節には、白い馬に乗るイエス様が記されています。

 しかし、小羊なるイエス様がここで、封印を解かれ、かつ、馬に乗って登場するというのは、どうにも納得しにくい話です。また、イエス様とした場合、この後登場する他の3頭の馬に乗る者が誰かも検討がつきません。

 弓は聖書の中で、武力を象徴しています。また、紀元62年には、当時、世界最強のローマ軍が、ローマ帝国の東の国境地帯に住む、パルテア人の部隊に敗北する事件が起こっています。このパルテア人は、白い馬に乗り、優れた弓術を持っていたので、ローマの強敵とされていたようです。
 直接、この幻が、パルテア人を意図していたかどうかは不明ですが、当時、聞く者には、この白い馬が武力による征服を意味することは、分かりやすかったと思われます。
 私たちもこの白い馬は、武力による征服を意味していると理解いたしましょう。
 6章3-4節を読みます。

6:3 小羊が第二の封印を解いた時、第二の生き物が「きたれ」と言うのを、わたしは聞いた。
6:4 すると今度は、赤い馬が出てきた。そして、それに乗っている者は、人々が互に殺し合うようになるために、地上から平和を奪い取ることを許され、また、大きなつるぎを与えられた。

 赤い馬に乗る者は、地上から平和を奪い取ることを許されます。自己都合優先の思いが人間を支配し、互いに憎み合い、個人と個人、グループとグループ国と国、とが剣、つまり武力によって解決をはかろうとする様です。
 紛争、内戦、戦争、これは、終末に限らず、現在でも見られます。
 6章5-6節を読みます。

6:5 また、第三の封印を解いた時、第三の生き物が「きたれ」と言うのを、わたしは聞いた。そこで見ていると、見よ、黒い馬が出てきた。そして、それに乗っている者は、はかりを手に持っていた。
6:6 すると、わたしは四つの生き物の間から出て来ると思われる声が、こう言うのを聞いた、「小麦一ますは一デナリ。大麦三ますも一デナリ。オリブ油とぶどう酒とを、そこなうな」。

 第3の封印を解いた時、黒い馬に乗った者が、何と、《はかり》を持って出てきたと言うのです。
 今度は4つの生き物からではなく、その間から声が聞こえたと言います。《小麦一ますは一デナリ、大麦三ますも一デナリ》と。これは、一人一日分の食料が、一日の労賃分で支払わなければ買えないということを言っています。
 主食となる穀物が飢饉によって高騰し、家計を著しく圧迫する状況です。しかし、一方では、高級品であるオリブ油とぶどう酒は豊作で飢饉の影響は受けていないようです。貧富の差が広がり、経済バランスが崩れ、暴動が起きかねない状況です。人々の心が、先の見えない失望感に覆われ、希望が失われていく様が描かれています。

 ヨハネが、黙示録を書いたドミティアヌス皇帝時代にも、このようなことがあったと言われています。穀物が極度に不足していたのにぶどう酒が有り余っていたそうです。
 いまの日本でも、格差社会がひろがり、同じように感じるところがあるのではないでしょうか。
 6章7-8節を読みます。

6:7 小羊が第四の封印を解いた時、第四の生き物が「きたれ」と言う声を、わたしは聞いた。
6:8 そこで見ていると、見よ、青白い馬が出てきた。そして、それに乗っている者の名は「死」と言い、それに黄泉が従っていた。彼らには、地の四分の一を支配する権威、および、つるぎと、ききんと、死と、地の獣らとによって人を殺す権威とが、与えられた。

 さらに小羊が、第4の封印を解いた時、青白い色の馬が出てきて、それに乗っていた者の名が《「死」》と言い、その後に《黄泉が従っていた》と言うのです。
 《黄泉》は、死んだもの(の魂)が集められる場所です。地下にある場所と考えられています。
 サタンの根拠地であり、また、サタンに備えられた場所とも考えられています。死を呼ぶ馬が来て、死んだ者たちを《黄泉》が奪い取っていく、なんとも気味の悪い、想像したくない様子です。
 8節の後半に、《彼らには》と言われているこの彼らとは、4番目の馬と乗った者を指しているのではなくて、4つの馬とそれに乗る者すべてを指すと考えて良いでしょう。
 そして、地上の四分の一人々を殺す権威が与えられたと言っています。
 6章9-11節を読みます。

6:9 小羊が第五の封印を解いた時、神の言のゆえに、また、そのあかしを立てたために、殺された人々の霊魂が、祭壇の下にいるのを、わたしは見た。
6:10 彼らは大声で叫んで言った、「聖なる、まことなる主よ。いつまであなたは、さばくことをなさらず、また地に住む者に対して、わたしたちの血の報復をなさらないのですか」。
6:11 すると、彼らのひとりびとりに白い衣が与えられ、それから、「彼らと同じく殺されようとする僕仲間や兄弟たちの数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいるように」と言い渡された。

 第5の封印が解かれた時、血の報復を求める殉教者たちの声が、祭壇の下から聞こえてきたと言うのです。これは世の人々に対して、今も呪う思いが消えていない不満に満ちた殉教者たちの姿なのでしょうか。
 使徒行伝7章59-60節のステパノの殉教を見てみましょう。

7:59 こうして、彼らがステパノに石を投げつけている間、ステパノは祈りつづけて言った、「主イエスよ、わたしの霊をお受け下さい」。
7:60 そして、ひざまずいて、大声で叫んだ、「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」。こう言って、彼は眠りについた。

 このステパノの祈りこそ、殉教者の心でしょう。
 主のために命を差し出した殉教者たちが、今も世の人々を呪っているとは思えません。
 ヨハネの黙示録6章10節は、自分たちの報復ではなくて、神さまのご主権が侮られたことに対して、報復を求めていると理解できます。神さまの義がないがしろにされたまま、四分の一の裁きだけでは不十分です。あなたの義を早く全うしてください。との求めということでしょう。

 そして与えられた白い衣は、殉教者たちが神さまの義に相応しいことを示しています。それは、あなたがたに約束したことは必ず守りますよ。わたしの義は、世に対して余すところなく全うされるので、もうしばらく待っていなさい。そのしるしとして与えられたのが白い衣との理解で良いでしょう。

 10節の《「聖なる、まことなる主よ。いつまであなたは、さばくことをなさらず、また地に住む者に対して、わたしたちの血の報復をなさらないのですか」。》という問いに11節の《…もうしばらくの間、休んでいるように》と、言われています。これは、マタイによる福音書11章28節の《すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。》の“休む”と同じ言葉が使われています。ですので、心配しないで万事わたしに委ねなさいと言われているのでしょう。
 ヨハネの黙示録6章12-17節を読みます。

6:12 小羊が第六の封印を解いた時、わたしが見ていると、大地震が起って、太陽は毛織の荒布のように黒くなり、月は全面、血のようになり、
6:13 天の星は、いちじくのまだ青い実が大風に揺られて振り落されるように、地に落ちた。
6:14 天は巻物が巻かれるように消えていき、すべての山と島とはその場所から移されてしまった。
6:15 地の王たち、高官、千卒長、富める者、勇者、奴隷、自由人らはみな、ほら穴や山の岩かげに、身をかくした。
6:16 そして、山と岩とにむかって言った、「さあ、われわれをおおって、御座にいますかたの御顔と小羊の怒りとから、かくまってくれ。
6:17 御怒りの大いなる日が、すでにきたのだ。だれが、その前に立つことができようか」。

 第6番目の封印が解かれました。すると、大地震が起こり、太陽が黒くなり、月は血のようになり、天の星が無数に落ちてきました。これが地域的か全世界規模かはわかりませんが、いずれにせよ、人類が今まで経験したことのない身の毛もよだつ、戦慄を覚える災害であることには間違いないでしょう。

 天は巻物が巻かれるように消えていくとあります。これは、これは当時の宇宙観の理解にそって、ヨハネに示されたものでしょう。
 当時、天はドーム状になっていたと考えられており、その天が一瞬にして消え、そこにちりばめられている星が、地上に落ちてきたと言うのです。その状況を目の当たりにした人々は、世の終わりを感じたでしょう。しかし、まだこれらは終わりに臨む患難の第1段階に過ぎませんでした。

 6章15節に書かれている《地の王たち、高官、千卒長、富める者、勇者、奴隷、自由人ら》は、政治的支配者、それにつぐ官僚、軍事的支配者、資本家、各分野のインフルエンサー(影響力のある人)、奴隷と奴隷から解放された自由人です。あらゆる階層の人々が、突然、未だかつて経験したことのない災害に襲われて、恐れおののく不信仰なるすべての者、不信仰なこの世をあらわしています。
 そして、マタイ福音書24章に書かれている通り、彼らは山に逃げて言うのです。
 ヨハネの黙示録6章16-17節です。

6:16 そして、山と岩とにむかって言った、「さあ、われわれをおおって、御座にいますかたの御顔と小羊の怒りとから、かくまってくれ。
6:17 御怒りの大いなる日が、すでにきたのだ。だれが、その前に立つことができようか」。

 《御座にいますかた》《小羊の怒り》の大いなる日が来た時、神さまの恵みの扉は永遠に閉ざされるのです。

〈今回の学び〉
 今回6章を一気に見てきました。いよいよ神さまの御怒りによるすさまじい患難が始まりました。
 ヨハネは、待ちに待った巻物の封印が解かれ、内容が明らかにされていき、6章の神さまの御怒りによる恐ろしい患難が飛び出してくるとは思ってもいなかったのではないでしょうか。
 ヨハネの黙示録4~5章で天の御座での素晴らしい礼拝のシーンがあったのですから、天の御国の輝かしい栄光があらわされるに違いないと思っていたかもしれません。
 また、そのあとは、殉教者と同じように、神さま、四分の一では足りません。ひと思いに報復してください、一気にすべて滅ぼしてくださいと思ったかもしれません。
 見方によっては、神さまは、神さまに従わない者をじわじわと追い詰めていじめているようにも思われます。しかし、ここに神さまの御心があります。

 じわじわ苦しめておられるように見える神さまのなさり方は、神さまに立ち帰ることができるチャンスを何度も与えられるためであり、それでも気づこうとしない人々に対しても、更にチャンスを残そうとされています。
 神さまは、これまで忍耐に忍耐を重ねられ、待ちすぎるほど待たれ、彼らに気づきやすいよう、手を差し伸べ続けてこられたのです。

 どうして忍耐を重ねられるのか、それは神さまが、決して約束を破ることのないお方であるからです。
 まず、神の民イスラエルのために、そしてアブラハムを通してすべての民が救われるために神さまはこの患難を用いようとされているのです。

 イスラエルの民は頑なでした。自分たちの立場を守るために神さまが遣わされたイエス様を十字架に架けました。マタイによる福音書27章25節を読みます。

27:25 すると、民衆全体が答えて言った、「その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい」。

 このことで、彼らはエルサレム陥落に続く離散を経験します。さらに、第二次世界大戦における大虐殺といった衝撃的な出来事もありました。それでも彼らの多くは、イエス・キリストをメシヤ(救い主)として受け入れることはしていません。

 そのためのさらなるショックが、今回見た第1の封印から第6の封印までに含まれていた災いとみることができます。そしてさらにその災いは続いていきます。

 今回のところ、ヨハネの黙示録6章15~17節で、あらゆる階層の人々が、この災いが、創造主なる神さまと、子羊なるイエス様の怒りから来ていることを理解しました。

 しかし私たちは、その御怒りを下す神さまの本当の御心を見たのです。それは、選民であるユダヤの民を何としても救いたい。そして、それを通して、そのユダヤの民と同じくらい頑なな私たち異邦人をも救いたいという御心です。

 私たちは自然と、この凄まじい患難に目が行きますが、むしろ、そこにある神さまの愛とあわれみに目を向けたいのです。イエス様は、何としても、1人でも多くの人に真理を悟って欲しいと願われています。

 私たちは、この神さまの愛、憐れみを知って、 時が良くても悪くても、福音を宣べ伝え、証し人として用いていただきましょう。それがどんなに、むなしく、空を切る拳闘のように思われても、教会を通してイエス・キリストを指し示し続けることをイエス様が何より望まれています。

2024年6月21日
尚徳牧師の素直に読む【ヨハネの黙示録_13】
タイトル:「解かれた封印」
牧師:香川尚徳