ショートメッセージ【マリヤ】

ルカによる福音書1-2章、他
(マリヤの使命)

1、マリヤの系図
2、マリヤの人物像
3、葛藤するマリヤの人生
4、マリヤ使命を果たす

1、マリヤの系図
 新約聖書の最初の書簡“マタイによる福音書1章1節”に記載される《イエス・キリストの系図》の最後には、同じ1章の16節には《ヤコブはマリヤの夫ヨセフの父であった。このマリヤからキリストといわれるイエスがお生れになった。》と書かれています。
 マリヤの最初の紹介は《マリヤの夫ヨセフ》と、系図を通してはじまっています。 
 父権社会であったイスラエルの系図は男性を通してですので、このように示されるのでしょう。
 ルカによる福音書では、マリヤのことが1章27節に登場します。

1:27 この処女はダビデ家の出であるヨセフという人のいいなづけになっていて、名をマリヤといった。

 ルカによる福音書3章の系図によれば、31節にダビデの名前がありますので、
 《マリヤ》は、私たちと同じ普通に肉体をもった女性です。
 マリヤは系図と肉体によれば、イエス様の母です。その《マリヤ》がどのような信仰をもちイエス様の受胎を受け入れたかを見ていきたいとおもいます。
 《マリヤ》は、ダビデの家系から出た女性でした。《マリヤ》がキリスト・イエスの母となったのは、神さまのご主権です。
 ローマ人への手紙9章15節に

9:15 神はモーセに言われた、「わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者を、いつくしむ」。

 とあるように、神さまは意のままに人を立てます。マリヤの出来事は神さまの恵みです。
 マタイによる福音書では、系図の説明の次に1章18節、

1:18 イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリヤはヨセフと婚約していたが、まだ一緒にならない前に、聖霊によって身重になった。

 と、イエス様の誕生について端的に述べられています。

 また、ルカによる福音書に目を向けますと、御使いガブリエルが年老いたザカリヤとその妻エリザベツにバプテスマのヨハネが誕生することを告げ、その祝福の話が終わってすぐに、ルカによる福音書1章26-27節です。

1:26 六か月目に、御使ガブリエルが、神からつかわされて、ナザレというガリラヤの町の一処女のもとにきた。
1:27 この処女はダビデ家の出であるヨセフという人のいいなづけになっていて、名をマリヤといった。

 と続きます。

2、マリヤの人物像
 ルカによる福音書1章28-29節を読みます。

1:28 御使がマリヤのところにきて言った、「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます」。
1:29 この言葉にマリヤはひどく胸騒ぎがして、このあいさつはなんの事であろうかと、思いめぐらしていた。

 ①冷静
 神さまの御使いが突然マリヤのところに来て語った内容に、とまどい、考え込みました。しかし、冷静に返答しています。
 マリヤは落ち着いており、少しも平静さを失う様子が書かれていません。彼女は冷静だったことが分かります。

 ②謙遜
 マリヤは救い主を身ごもる祝福を受ける約束を聞いて、喜んだと言うよりは、自分が卑しい女であることを告白しています。ルカによる福音書1章48節です。

1:48 この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました。今からのち代々の人々は、わたしをさいわいな女と言うでしょう、

 自分に、そのような祝福を受ける身分や資格などないと理解していたので、1章38節で自分を《主のはしため》だと告白しています。謙遜は、こうして見ると神さまの御前で真の自分の姿を知ることと言えます。

 ③素直な信仰
 おとめである自分が、子供を授かるとガブリエルに告げられます。マリヤは単純に疑問を投げかけます。ルカによる福音書1章34節です。

1:34 そこでマリヤは御使に言った、「どうして、そんな事があり得ましょうか。わたしにはまだ夫がありませんのに」。

 それに対して、1章35節でガブリエルがご聖霊によって身ごもると言っています。そして、ガブリエルは神さまの全能性を言い切ります。
 ルカによる福音書1章35-37節を読みます。

1:35 御使が答えて言った、「聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生れ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう。
1:36 あなたの親族エリサベツも老年ながら子を宿しています。不妊の女といわれていたのに、はや六か月になっています。
1:37 神には、なんでもできないことはありません」。

 御使いガブリエルの説明に対してマリヤは1章38節で応じます。

1:38 そこでマリヤが言った、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」。そして御使は彼女から離れて行った。

 マリヤは御使いガブリエルの言葉に何の反論もしません。自分が《はしため》だと言い、また、《お言葉どおりこの身に成りますように」。》と、素直に御使いの言葉を受入れ、慎み深く言葉を発しています。
 ご聖霊によって身ごもるとは、かつてない奇跡であり、試される御言葉です。

 マリヤの態度は、アブラハムの信仰以上に、悟りきった信仰の姿と言えます。
 アブラハムは、年老いた体に子どもを与える約束を信じました。
 そして、マリヤは処女が聖霊によって身ごもる約束を信じました。このように、信仰の人は、自分の頭で納得できないことを、無条件に神さまが仰ることとして信じました。このようなマリヤの信仰を、エリサベツは賞賛しています。
 ルカによる福音書1章45節《主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんとさいわいなことでしょう」。》

④ 思慮深い女性
 聖書箇所が前後しますが、ルカによる福音書2章19節を読みます。

2:19 しかし、マリヤはこれらの事をことごとく心に留めて、思いめぐらしていた。

 マリヤはメシア(救い主)であるイエス様を子にするという特殊な人生を送りました。ですから、普通の子供とは違うイエス様の振る舞い、言動に何度も戸惑うことがありました。
 しかし、その度にそれを思慮深い態度で、すべて心に留めていました。
 ルカによる福音書2章51-52節

2:51 それからイエスは両親と一緒にナザレに下って行き、彼らにお仕えになった。母はこれらの事をみな心に留めていた。
2:52 イエスはますます知恵が加わり、背たけも伸び、そして神と人から愛された。

 自分自身の信仰を測定するとしたら、自分自身の人生に、理解できないことや、自分の力で制御できない状況にある場合、どのような態度を取るかです。
 なぜ、占いがはやるのでしょうか。それは現在の状況や未来について、早く手軽に把握したいという思いがあるからでしょう。
 しかし人生は、他人任せにできるような、そんな単純ではありません。

 そのような状況で、一つひとつの出来事などを、聖書に照らし合わせて心に留めていきます。また、黙って気を散らさず深く考え、祈りによって心を豊かにし、さまざまなことを通して学び、経験し、自分を磨いて、そこから開かれる答えというものがあります。それを悟るには、忍耐と思慮深さが求められます。すぐ答えを知りたがる人は、そういった作業やプロセスを辿ろうとはしません。
 マリヤにはそのような思慮深さがあります。そして、彼女の賛歌を読んでみると、旧約聖書の知識度と理解が垣間見えます。
 ルカによる福音書1章46-55節です。

1:46 するとマリヤは言った、「わたしの魂は主をあがめ、
1:47 わたしの霊は救主なる神をたたえます。
1:48 この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました。今からのち代々の人々は、わたしをさいわいな女と言うでしょう、
1:49 力あるかたが、わたしに大きな事をしてくださったからです。そのみ名はきよく、
1:50 そのあわれみは、代々限りなく/主をかしこみ恐れる者に及びます。
1:51 主はみ腕をもって力をふるい、心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、
1:52 権力ある者を王座から引きおろし、卑しい者を引き上げ、
1:53 飢えている者を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます。
1:54 主は、あわれみをお忘れにならず、その僕イスラエルを助けてくださいました、
1:55 わたしたちの父祖アブラハムとその子孫とを/とこしえにあわれむと約束なさったとおりに」。

3、葛藤するマリヤの人生
 ルカによる福音書2章25-35節に登場する、正しい信仰深い人シメオンは、イスラエルが慰められるのを待ち望んでいました。そのシメオンは、宮で赤ちゃんのイエス様を見ました。ご聖霊がシメオンの上におられ、イエス様への預言を含めて、マリヤの人生を象徴する預言をします。
 ルカによる福音書2章32節と34節を続けて読みます。

2:32 異邦人を照す啓示の光、み民イスラエルの栄光であります」。

2:34 するとシメオンは彼らを祝し、そして母マリヤに言った、「ごらんなさい、この幼な子は、イスラエルの多くの人を倒れさせたり立ちあがらせたりするために、また反対を受けるしるしとして、定められています。

 イエス様が異邦人にとって光となる一方、肝心なイスラエル人の多くが彼に反対します。
 そして、イエス様のメシアとしての戦いの人生が、マリヤの心をも突き刺すことを語ります。
 続けて、ルカによる福音書2章35節を読みます。

2:35 そして、あなた自身もつるぎで胸を刺し貫かれるでしょう。――それは多くの人の心にある思いが、現れるようになるためです」。

 マリヤは、御使いガブリエルからの約束を受け止めて、神さまを賛美して喜びましたが、それからすぐ、イエス様をお腹に宿した時から苦しみが始まりました。
 ヨセフと言う許婚(いいなずけ)がいて、婚約中の身でお腹が大きくなるのですから、当時、石打ちの刑もありえる恐ろしい状況です。人々からの噂、視線、軽蔑を耐えなければいけませんでした。誕生以後も、メシアゆえの少年イエスに振り回されて苦労します。
 ルカによる福音書2章41-45節

2:41 さて、イエスの両親は、過越の祭には毎年エルサレムへ上っていた。
2:42 イエスが十二歳になった時も、慣例に従って祭のために上京した。
2:43 ところが、祭が終って帰るとき、少年イエスはエルサレムに居残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。
2:44 そして道連れの中にいることと思いこんで、一日路を行ってしまい、それから、親族や知人の中を捜しはじめたが、
2:45 見つからないので、捜しまわりながらエルサレムへ引返した。

 マリヤは、イエス様が公生涯を歩まれてからも、人から受け入れられないメシア(救い主)としての道を行く、我が子を前に肉の母としての思いにより葛藤します。そして、最後は十字架で死ぬ我が子としてのイエス様を見届ける悲しみを体験します。

 御使いガブリエルに《おめでとう。恵まれた方》と言われたマリヤには、イエス様を引き受けたゆえの苦難がありました。

 クリスチャンになること、神様の祝福を受けることを、現世利益程度にしか考えない人にとっては、そのような出来事の一つひとつを理解できず、不信仰に陥ってしまいます。

 神さまに自分の人生を委ねることは、決して自分の考えや常識で判断すべきものではありませんし、また、自分の思い通りになる人生ではありません。
 しかし、そんな状況でも確かに主である神さまは働いておられ共におられます。

 マリヤを幸いな人として扱い、祝福へと運んでいるのです。イエス様が十字架と復活を通られたように、私たちも主にある喜びと苦難も神さまの御心だとして、不平不満が解消されつつ受け入れるようになるのです。
 ピリピ人への手紙1章29節を読みます。

1:29 あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむことをも賜わっている。

4、マリヤ使命を果たす
 マリヤもイエス様に対して、肉の母としての立場と、自分の救い主メシアとすることへの狭間で葛藤していました。ですから最初は、弟子たちの集団に加わらず距離を置いていたようです。マルコによる福音書3章32節を読みます。

3:32 ときに、群衆はイエスを囲んですわっていたが、「ごらんなさい。あなたの母上と兄弟、姉妹たちが、外であなたを尋ねておられます」と言った。

 しかしマリヤは、イエス様の十字架の前後で、イエス様を救い主として従っています。
 ヨハネによる福音書19章25-27節を読みます。

19:25 さて、イエスの十字架のそばには、イエスの母と、母の姉妹と、クロパの妻マリヤと、マグダラのマリヤとが、たたずんでいた。
19:26 イエスは、その母と愛弟子とがそばに立っているのをごらんになって、母にいわれた、「婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です」。
19:27 それからこの弟子に言われた、「ごらんなさい。これはあなたの母です」。そのとき以来、この弟子はイエスの母を自分の家に引きとった。

 25節に4人の女性の中に、イエス様を産んだマリヤがイエス様の十字架の側に佇んでいます。
 マリヤは、イエス様が十字架につけられ、罵られ、痛みと苦しみを感じておられるお姿をどのような気持ちで見ていたことでしょうか。
 また、夫ヨセフのことは書かれていません。

 イエス様はマリヤを見て、その側にいた弟子ヨハネに自分の母マリヤを託したのでした。おそらく夫ヨセフは、他界していたのでしょう。ヨハネはこの日から、イエス様の母マリヤのお世話をします。

最後に使徒行伝1章14節を読みます。

1:14 彼らはみな、婦人たち、特にイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちと共に、心を合わせて、ひたすら祈をしていた。

マリヤは、イエス様が天に上って行かれてから、使徒行伝1章14節で弟子たちと共に祈っていた記録以降、初代教会時代では一度も出てきていません。マリヤは、自身の分をわきまえ、特別視されることを避けたのではないでしょうか。

マリヤはイエス様を育てて、肉の母の立場から、身を低くしてメシアであるイエス様を個人的に主として受け入れることで、自らの大役を終えて退いているようです。マリヤの人生も驚く展開が多くありましたが、彼女の冷静さと素直な信仰、その信仰ゆえの忍耐は、私たちの大きな学びとなります。

2024年6月16日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:戀田寛正

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