素直に読む【ヨハネの黙示録_14】

ヨハネの黙示録7章1-17節
「救いは子羊からきたる」

〈はじめに〉
 6章で、第6 の封印のところまで進んできました。
 いよいよこれが最後だと言う第7 の封印を解く前に、本日の7章の学びでは、ここまでの患難を通して救われることができた者に、神さまがどのような保護の下に置いてくださるのかを、幻を通して見せようとされています。また、それによって、神さまの怒りが、単なる人間の不信仰さ、愚かさへの報復ではないことを知ることができます。
 では、始めから見てきましょう。

〈本文〉
 ヨハネの黙示録7章1-3節を読みます。

7:1 この後、わたしは四人の御使が地の四すみに立っているのを見た。彼らは地の四方の風をひき止めて、地にも海にもすべての木にも、吹きつけないようにしていた。
7:2 また、もうひとりの御使が、生ける神の印を持って、日の出る方から上って来るのを見た。彼は地と海とをそこなう権威を授かっている四人の御使にむかって、大声で叫んで言った、
7:3 「わたしたちの神の僕らの額に、わたしたちが印をおしてしまうまでは、地と海と木とをそこなってはならない」。

 当時の人たちは、地球が球状ではなく、四角な大地に四隅があると信じていたようです。また、自然の力は天使の支配下にあると考えていたようです。
 《生ける神の印を持って、日の出る方から上って来るのを見た。》は、日の出る方向、つまり太陽が昇ってくる方向は、いのちの方角でした。御使いは生ける神の印をもっていました。その印を押されたら確かにその押された人に神さまが生きて働いておられることが分かるそんな印なのでしょう。

 《印をおしてしまうまでは》というところは、エゼキエル書9章のイメージが重なります。この箇所では、墨つぼを持った男が、神さまのしもべの額にしるしをつけて、罰する者が、このしるしのある者には触れないように命じられます(エゼキエル9章1-7節)。
 四隅の御使いたちが、風を抑えている中で、粛々と生ける神の印が御使いによって押されていく様が想像されます。
 7章4-10節を読みます。

7:4 わたしは印をおされた者の数を聞いたが、イスラエルの子らのすべての部族のうち、印をおされた者は十四万四千人であった。
7:5 ユダの部族のうち、一万二千人が印をおされ、ルベンの部族のうち、一万二千人、ガドの部族のうち、一万二千人、
7:6 アセルの部族のうち、一万二千人、ナフタリの部族のうち、一万二千人、マナセの部族のうち、一万二千人、
7:7 シメオンの部族のうち、一万二千人、レビの部族のうち、一万二千人、イサカルの部族のうち、一万二千人、
7:8 ゼブルンの部族のうち、一万二千人、ヨセフの部族のうち、一万二千人、ベニヤミンの部族のうち、一万二千人が印をおされた。
7:9 その後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立ち、
7:10 大声で叫んで言った、「救は、御座にいますわれらの神と/小羊からきたる」。

 ヨハネは、印を押された者の数を聞きます。14万4千人。この数は、実質的な数と受け止めない方が良いでしょう。この数字は、象徴的な数で、完全数から組み立てられています。
 ここで黙示録21章12-14節を読みます。

21:12 それには大きな、高い城壁があって、十二の門があり、それらの門には、十二の御使がおり、イスラエルの子らの十二部族の名が、それに書いてあった。
21:13 東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。
21:14 また都の城壁には十二の土台があり、それには小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。

 12部族の12と、十二使徒の12を掛け合わせて144。ここに完全な四面体を示す1000(10×10×10)が掛け合わされています。
 そして、ここで象徴的に書かれている者たちは、次の9節の白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立つ、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆を指しています。
 印を押された者は神さまが、信仰において承認した民であり、その後、ヨハネが見たのは罪が贖われ、キリストの勝利にあずかった者たちと言うことでしょう。

 ここで大切なのは、イスラエル民族かどうかを問わず、この患難を通して、イエス・キリストを救い主と信じ、贖われた者たちが、御座と小羊との前に立ち、しゅろの枝を手に持って主を賛美する者とされているのだという点です。

 そして、7章14節の長老の説明で、彼らは、この地上の患難を通ってきた者たち(空中再臨された教会とは別)であることも分かります。
 地上における患難時代を通されることによって、霊の目が開かれ、キリストに従う信仰に生きる者とされた人たちは、神さまの保護の下に置かれ、各地から集められた同様の者たちとともに白い衣が与えられ、キリストに従う勝利者として主の幕屋に入り、御座と小羊との前に立たせていただけるということです。

 先ほど、イスラエル部族の人数の表現を実質的な表現として受けとめるべきではないと話しました。
 では、ここで患難を通じて贖われた者たちを表現するのに、わざわざイスラエルの部族を取り上げたのはどういうことでしょうか。
 これは、やはり神さまの約束の成就を強調しているように思います。

 当時、このヨハネの黙示録の手紙を受け取って、朗読を聞いているアジアの教会は、ローマ帝国の迫害の中にありました。そして、実質的に迫害していたのは、ローマ帝国の威を借りたユダヤ人たちであったこともお話ししました。
 教会の兄弟姉妹たちにもやるせない思いがあったでしょう。

 しかし、そのユダヤ人たちもイエス・キリストを通して救われるのだ。神さまにできないことはないのだ。その愛とあわれみはどこまでも深く、約束されたことを果たされるのだ。ということを改めて、知らしめることで、このことを礼拝で聞いている兄弟姉妹は多いに励まされたことでしょう。
 黙示録7章11-12節を読みます。

7:11 御使たちはみな、御座と長老たちと四つの生き物とのまわりに立っていたが、御座の前にひれ伏し、神を拝して言った、
7:12 「アァメン、さんび、栄光、知恵、感謝、ほまれ、力、勢いが、世々限りなく、われらの神にあるように、アァメン」。

 天上の礼拝の様子が、5章の時と同じように描かれています。御座の神さま、そして子羊なるイエス様、4つの生き物と長老、そして御使いたちがその周りを取り囲んで礼拝しています。神さまをほめ讃える幸いも、心からの礼拝をささげる祝福も、白い衣を着た者として天上に引き上げられない限り、十分には分からないということでしょう。主を褒めたたえていれば、霊は喜びに溢れ、12節《「アァメン、さんび、栄光、知恵、感謝、ほまれ、力、勢いが、世々限りなく、われらの神にあるように、アァメン」。》これらの賛美が口から自然に出てくる、喜び躍る礼拝者にされるのです。
 黙示録7章13-17節を読みます。

7:13 長老たちのひとりが、わたしにむかって言った、「この白い衣を身にまとっている人々は、だれか。また、どこからきたのか」。
7:14 わたしは彼に答えた、「わたしの主よ、それはあなたがご存じです」。すると、彼はわたしに言った、「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。
7:15 それだから彼らは、神の御座の前におり、昼も夜もその聖所で神に仕えているのである。御座にいますかたは、彼らの上に幕屋を張って共に住まわれるであろう。
7:16 彼らは、もはや飢えることがなく、かわくこともない。太陽も炎暑も、彼らを侵すことはない。
7:17 御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう」。

 患難時代の中を通された者の中から、このように天上に引き上げられる者が起こされることを思い、彼らに仕えている御使いたちによる賛美にうっとりと聞き入っていた時、13節で、ヨハネは一人の長老に質問されます。
 ところが、「この白い衣を身にまとっている人々は誰ですか」と。ヨハネは答えることを避けました。十分理解できていなかったのか、主である神さまから直接それを伺いたいと思ったかは不明ですが、ヨハネに質問した長老が答えています。

 これは、神さまが何とかして1人でも多くの者を選び出したい、そして白い衣を身にまとわせ、ご自身の御前に立つことができる幸いを味あわせたいと思っておられることの訴えかけでしょう。白い義の衣をいただくことがどれほどまでにすばらしいことか。罪がないとされている事実がどんなにすごいことか。それを味わえる霊の人となり、神さまの下に置かれる幸いを信仰の目で見ることができる者になりなさいと言われているようです。
 もう一度、黙示録7章16-17節を読みます。

7:16 彼らは、もはや飢えることがなく、かわくこともない。太陽も炎暑も、彼らを侵すことはない。
7:17 御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう」。

 イエス様が患難を通って救われた者のまことの牧者になってくださり、養い満たしてくださる。また、患難を通って来た彼らの目の涙を、神さまは、ことごとくぬぐいとってくださるのです。

〈今回の学び〉
 本日の学びの箇所を通しても、神さまが何とかして1人でも、救われて欲しい、白い義の衣で、主を讃えることによって与えられる満ち溢れる喜びを味わってほしいという切なる思いをもって導かれていることを見ることができました。

 サタンが暗躍する恐ろしい患難時代を簡単に終わらせないで、少しでも信仰に生きる者が増し加わっていくようにとの神さまのご計画があることが分かります。
 そして、天上の礼拝の様子が、5章の時と同じように描かれていました。

 この世の患難を通って救われた者も、患難前にイエス様を信じた信仰者と同じように 白い衣を着せられて、霊の喜びに溢れ、12節の《「アァメン、さんび、栄光、知恵、感謝、ほまれ、力、勢いが、世々限りなく、われらの神にあるように、アァメン」。》と賛美し、喜び躍る礼拝者にしてくださるというのです。

 私は、ここで、マタイによる福音書20章1-16節に記されている、ぶどう園の主人のたとえ話を思い出しました。
 ぶどう園の主人が、朝早く出かけて、1日1デナリ(当時の平均的な1日分の労賃)の約束で働く者を雇います。そして、ぶどう園の主人は、9時、12時、3時(15時)、夕方5時(17時)にも出かけて行って、支払う賃金を言わずに、誰にも雇われない人たちみんなを雇います。
 仕事が終わり、主人は、管理人に言って、最後に雇った夕方5時の者たちから順に賃金を払うように命じます。そして、はじめに、夕方5時に来て、1時間しか働かなかった者たちも何と1デナリを受け取りました。
 それを見た、早朝からの者たちは、もっと多くもらえるだろうと期待していました。しかし、もらったのは、たった1時間しか働かなかった者と同じ、1デナリだったので、主人に不満を言うというお話です。

 早朝からの働いた者たちは、約束を違わず、賃金を支払った主人に感謝すべきでした。朝早くから仕事の約束がいただけたこと、賃金をいただけるというその平安・幸いがあったこと、そして、1日主人の守りに与ったことに感謝しなければなりませんでした。
 そして、夕方5時に雇われた者には、仕事もいただき、お金ももらえてよかったですね。と、主人は気前が良いですね、素晴らしい人ですねと、夕方5時の者たちとともに喜ぶことを主人は望んでいると言う譬え話です。

 当時、このヨハネの黙示録の朗読を聞く教会の兄弟姉妹の中には、自分たちを迫害するユダヤ人たちが、患難は通るとしても、どこまでも深い神さまの愛によって救われて、ともに白い衣を着せられ、神さまを賛美するということに、何ともやるせない思いを持っている者もいたのかもしれません。

 しかし、神さまのみ心は、ぶどう園の主人の心なのです。夕方5時の者たちとともに喜んでほしいのです。「救われて良かったですね。神さまは本当に愛ある素晴らしい方ですね、さあ一緒に神さまを賛美しましょう」と。

 そして、たとえ、今、迫害や困難の中にあっても、夕方5時からの者たちをねたんで文句を言う早朝から働いた者たちの様ではなくて、今、主イエス・キリストの守りの中で、すでに救われて、天の御国の約束が与えられていることに目を向け、そこに感謝と希望をもって、信仰の歩みを歩んでいくようにとの励ましなのです。
 私たちも今、イエス様の守りと平安が与えられていることに、また、救いと御国の約束があることに感謝と希望をもって歩む信仰者でありたいと思わされます。神さまの御翼のかげで守られているのに、つぶやきや文句を言って、「先の者があとになってしまわないように」と教えられているのです。

2024年7月19日
尚徳牧師の素直に読む【ヨハネの黙示録_14】
タイトル:「救いは子羊からきたる」
牧師:香川尚徳