ショートメッセージ【イエス・キリスト④】

マタイによる福音書10章1-4節
マルコによる福音書3章13-19節
ルカによる福音書6章12-16節

(12弟子の任命の意図)

1、マタイの視点から
2、マルコの視点から
3、ルカの視点から
4、12弟子の任命の意図

1、マタイの視点から
 聖書の中で12弟子たちの話は有名です。その弟子たちの任命については3つの福音書に書かれています。
 まずマタイによる福音書です。10章1-4節を読みます。

10:1 そこで、イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊を追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやす権威をお授けになった。
10:2 十二使徒の名は、次のとおりである。まずペテロと呼ばれたシモンとその兄弟アンデレ、それからゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、
10:3 ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、
10:4 熱心党のシモンとイスカリオテのユダ。このユダはイエスを裏切った者である。

 こうして12弟子を選び、それぞれに遣わしていく記事となります。イエス様の教えを宣教するために選ばれたということです。
 この記事だけでは、イエス様の意図を理解するには難しいので、前章の9章35-38節を読みます。

9:35 イエスは、すべての町々村々を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。
9:36 また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた。
9:37 そして弟子たちに言われた、「収穫は多いが、働き人が少ない。
9:38 だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい」

 イエス様は、弟子たちを連れて神の国の教えを広めていました。
 そこで、多くの人たちがその教えを必要としておられることに嘆かれ、ともについてきた弟子の中から12人を選んだという点が強調されていることが分かります。

 これまでお話ししてきたように、マタイによる福音書はイスラエルが継承してきた神さまへの信頼と聖書のことばの成就した点を強調した書簡です。ですから、イエス様の教えやこれまでの聖書に書かれていることを人々に継承し、人々を救うために弟子を選んだことが明確に示されているのです。

2、マルコの視点から
 次に、マルコによる福音書です。3章13-18節を読みます。

3:13 さてイエスは山に登り、みこころにかなった者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとにきた。
3:14 そこで十二人をお立てになった。彼らを自分のそばに置くためであり、さらに宣教につかわし、
3:15 また悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。
3:16 こうして、この十二人をお立てになった。そしてシモンにペテロという名をつけ、
3:17 またゼベダイの子ヤコブと、ヤコブの兄弟ヨハネ、彼らにはボアネルゲ、すなわち、雷の子という名をつけられた。
3:18 つぎにアンデレ、ピリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルパヨの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、
3:19 それからイスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。

 マルコによる福音書でも、この聖書箇所だけでは、イエス様の意図が分かりづらいので解説します。
 2章から3章の前半にかけて、イエス様や弟子たちの言動に対して非常に批判的な記事が続きます。(中風の人を癒す2章1-12節、レビを弟子にする2章13-17節、断食について2章18-22節、安息日について2章23-28節、萎えた片手を癒す3章1-6節)
 そして、3章7-12節では癒しを求めてきた大勢の人を癒し、けがれた霊たちさえも《「あなたこそ神の子です」》(3章11節)と言っている記事になります。

 そして今回の記事になります。マルコによる福音書は、良い知らせである福音とは、何であるのかをシンプルに絞り込んで説明することが目的です。イエス様は口だけの教えや言い伝え、また議論ではなく、本質的な聖書の教えの中に生きること、実質的に隣人を愛することの大切さを弟子たちに教えています。マタイによる福音書のように、任命後すぐに遣わす記事になるのではなく、イエス様の教えが続くことからも理解しやすいのではないでしょうか。

3、ルカの視点から
 続いてルカによる福音書です。6章12-16節を読みます。

6:12 このころ、イエスは祈るために山へ行き、夜を徹して神に祈られた。
6:13 夜が明けると、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び出し、これに使徒という名をお与えになった。
6:14 すなわち、ペテロとも呼ばれたシモンとその兄弟アンデレ、ヤコブとヨハネ、ピリポとバルトロマイ、
6:15 マタイとトマス、アルパヨの子ヤコブと、熱心党と呼ばれたシモン、
6:16 ヤコブの子ユダ、それからイスカリオテのユダ。このユダが裏切者となったのである。

 この箇所の前の記事を見てみます。
 マルコによる福音書と比べ、内容は若干代わるものの一見するとイエス様と律法の専門家たちとの似たやりとりが続きます。(中風の人を癒す5章18-26節、レビを弟子にする5章27-32節、断食について5章33-35節、新しい革袋と古い革袋のたとえ5章36-39節、安息日について6章1-5節、萎えた手を癒す6章6-11節)一つ大きく違うのは、新しい革袋と古い革袋のたとえ(5章36-39節)が入っていることです。そこを見てみましょう。
 ルカによる福音書5章36-39節を読みます。

5:36 それからイエスはまた一つの譬を語られた、「だれも、新しい着物から布ぎれを切り取って、古い着物につぎを当てるものはない。もしそんなことをしたら、新しい着物を裂くことになるし、新しいのから取った布ぎれも古いのに合わないであろう。
5:37 まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、新しいぶどう酒は皮袋をはり裂き、そしてぶどう酒は流れ出るし、皮袋もむだになるであろう。
5:38 新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。
5:39 まただれも、古い酒を飲んでから、新しいのをほしがりはしない。『古いのが良い』と考えているからである」。

 本来の律法には書き記されていない、自分たちの伝統や文化、価値観で断食をしている人たちを古い革袋にたとえた記事です。
 ここで思い出してほしいのですが、ルカによる福音書は、公の資料として多くの証言や証拠を基にキリストを伝えている点です。つまり、当時のユダヤ人の教えは、聖書の教えによるものではなく、自分たちが独自に作ってきた伝統や文化、価値観によるものであったことを強調していることがわかります。そのことを第三者に伝えることで、イエス様は聖書の教えに生きていくことの正当性を伝えているのです。

 本来の目的から離れた教えや行動は、いかに役に立たないかを教えているだけではなく、加えて、むしろ努力すればするほど酷いことになることを教えられます。

4、12弟子の任命の意図
 3つの福音書から、同じ出来事であろう記事を比較しながら見てみると、強調点の違いから、学ぶ要素が違うことを教えられます。

 マタイの強調点は、弟子の任命を宣教という、神さまの教えと信頼することを継承する点にあったことがわかります。私たちが伝えるべきは、イエス・キリストというお方の権威によって継承されている事実ということです。
 マタイによる福音書28章18節を読みます。

28:18 イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。

 マルコの強調点は、口だけの教えや言動ではなく、聖書から学び、神さまと隣人を愛することこそ良い知らせ、つまり、福音であることを伝えるために12人を任命しています。
 マルコによる福音書1章1節を読みます。

1:1 神の子イエス・キリストの福音のはじめ。

 ルカの強調点は、神さまと神さまの言葉である聖書を根拠としない、似て非なる教えの存在があることをです。
 それは、もしかすれば当時のパリサイ人のように、牧師やクリスチャンだと自称する人の中に存在するかもしれません。また、伝統や文化の中で築いてきた神学の中にあるのかもしれません。いずれにせよ、使徒行伝17章11-12節に登場するベレヤの人たちのように、人から聞いて鵜呑みするのではなく、聖書より教えらなければ、イエス・キリストが言わんとする正しい教えとして自分の心に留まらず、下手すると神さまと共に生きているフリをしているに過ぎなくなるかもしれないのです。
 使徒行伝17章11-12節を読みます。

17:11 ここにいるユダヤ人はテサロニケの者たちよりも素直であって、心から教を受けいれ、果してそのとおりかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べていた。
17:12 そういうわけで、彼らのうちの多くの者が信者になった。また、ギリシヤの貴婦人や男子で信じた者も、少なくなかった。

 あなたは、どの福音書の箇所が心を探られますか。

2024年7月21日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:香川盛治

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