ショートメッセージ【イエス・キリスト③】
マタイによる福音書4章1-11節
マルコによる福音書1章12-13節
ルカによる福音書4章1-13節
(悪魔の誘惑)
1、マタイの視点から
2、マルコとルカの視点から
3、教えられる試練の意味
1、マタイの視点から
新約聖書の4つの福音書は、神の子であるキリストの存在を伝えるという大きな意義がある一方、あくまでも完全な人間として生きた記録でもあります。
へブル人への手紙4章15節を読みますと、
4:15 この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。
と書かれています。ですから、“神の子”“人”の両方の視点があってはじめて、聖書を見る視点のバランスが取れることを覚えなければなりません。
本日のテーマである“悪魔の誘惑”の記事については3つの福音書に書かれています。順を追って見ていきましょう。
まずはマタイです。これまでお話ししてきたようにマタイによる福音書は、イスラエルが継承してきた神さまへの信頼と旧約聖書の言葉が成就した点を強調した書簡です。
キリストの誕生から成長期に至るまで、これまで聖書の預言が成就した点を強調しています。
そして3章では、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けて、いわゆる公生涯と呼ばれる福音を宣べ伝える活動を始めたことが書かれており、はじめに悪魔の試みを受け、公生涯が、悪魔の誘惑から始まるという流れを教えてくれています。
これは、マタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書の3つともに同じです。つまり、公生涯の準備段階のテストという意味合いがあることがわかります。
イエス様は、神の子だから誘惑にあわないのではなく、神の子であり、父なる神さまの怒りと裁きを人に代わって負う救世主であるからこそ、罪人の立場に立つだけでなく、人が受ける試みを神の子・救世主であるイエス様も受けることによって、真の救い主(ヘブル人への手紙2章17-18節)となるためなのでしょう。ですから、悪魔の強烈な誘惑にあわなければならなかったと言えます。
さて、マタイによる福音書ではこの記事の詳細を書いています。詳細を書いてあるのはマタイだけです。言うまでもなく、マタイは、神さまへの信頼と聖書の言葉の成就した点を強調しているからです。
マタイによる福音書4章1節を読みます。
4:1 さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。
4章1節を見ると、《御霊によって》と書かれていますので、この試みは、神さまによることがわかります。
主の使いは、ヨセフにマリヤの妊娠が「聖霊による」ことを伝えたことと同様に、神さまによって導かれたものであることを強調しているのです。
私たちは必ず試験を受けさせられます。例えば、期末試験、受験、就職、昇進試験、資格、生き方、同じです。
キリストも自らの働きをする前に受けるべき試験を受けたということです。
では、一つ目の試練を見ましょう。4章2-4節です。
4:2 そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。
4:3 すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。
4:4 イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。
興味深いのは、試みる悪魔の発言が、表向き分かりやすい点です。
空腹の人にとって食事をすることは問題ではありません。悪魔の誘惑は、神の子であるならば、石をパンにすることくらい、容易いことだろうと。ということです。ひと言で言えば“そそのかし”です。
イエス様は、試みる悪魔の発言に対し、食事だけではなく、神さまの言葉によって生きることを伝えています。
《生きる》とは、生命活動や欲求を満たすという点と、自分の存在する目的や目標、意義という最も大切な視点が必要であることを聖書は説明しています。
ご聖霊によって断食をするように導かれたのだから、すべてをご聖霊に委ねて生きていくことが《生きる》ことであると伝えています。
4章4節の《『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』》は、申命記8章3節からの引用です。
二つ目の誘惑は4章5-7節です。
4:5 それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて
4:6 言った、「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』と書いてありますから」。
4:7 イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。
4節でイエス様は、聖書の言葉を用いて悪魔の誘惑に返事されたので、次に悪魔は、イエス様と同じように聖書の言葉を用いてイエス様を聖なる都の宮の高いところから飛び降りるように言いました。この引用箇所は、詩編91篇11-12節です。
91:11 これは主があなたのために天使たちに命じて、あなたの歩むすべての道で/あなたを守らせられるからである。
91:12 彼らはその手で、あなたをささえ、石に足を打ちつけることのないようにする。
挑発的と言えばいいのでしょうか。好戦的と言えばよいでしょうか。
しかし、この引用箇所の詩編91編1-2節を見ますと、
91:1 いと高き者のもとにある/隠れ場に住む人、全能者の陰にやどる人は
91:2 主に言うであろう、「わが避け所、わが城、わが信頼しまつるわが神」と。
という条件のもとに守ってくれることがわかります。意味もなく高いところから飛び降りるために神さまが守ってくれるのではないという点を注目しなければなりません。
これは現代のクリスチャンにも忠告となるのではないでしょうか。
最も大切なことは、何かを神さまに期待する以上に、《いと高き者のもとにある/隠れ場に住む人、全能者の陰にやどる人は》と言えるほど、日々の生活で、いかに神さまを信頼して生きているかが本質なのです。ですから、ここでもイエス様は聖書の言葉で反論したのです。
最後、三つ目の誘惑はマタイによる福音書4章8-11節です。
4:8 次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて
4:9 言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。
4:10 するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。
4:11 そこで、悪魔はイエスを離れ去り、そして、御使たちがみもとにきて仕えた。
悪魔は、一つ目は食欲にからめて誘惑し、二つ目は神さまを軽視した自己中心的で無意味な行動をさせようと誘惑し、そして三つ目は、自分に《ひれ伏して拝むなら》と言い、この世の見た目や高い地位への欲求によって悪魔は誘惑しました。“試みる者”から、いよいよ本格的な悪魔として誘惑を仕掛けていったというところでしょうか。
この世は自分のモノと高ぶった悪魔の言葉に、イエス様は同じく聖書の言葉で悪魔の誘惑を撃退しました。
申命記6章13節です。
6:13 あなたの神、主を恐れてこれに仕え、その名をさして誓わなければならない。
その結果、《悪魔はイエスを離れ去り、そして、御使たちがみもとにきて仕えた。》のです。
この悪魔によるイエス様の誘惑の話しは、私たちが、誘惑の世界に生きていることを示唆しています。自分の欲望に誘惑があるわけではありません。同調圧力も誘惑の一つです。
2、マルコとルカの視点から
マルコによる福音書を見てみましょう。1章1節です。
1:1 神の子イエス・キリストの福音のはじめ。
という言葉から始まります。つまり、人が受け入れるべき福音とは何であるのかを特化して説明することが目的で書かれたということです。マルコでの悪魔の誘惑の記事は、マルコによる福音書1章12-13節に、
1:12 それからすぐに、御霊がイエスを荒野に追いやった。
1:13 イエスは四十日のあいだ荒野にいて、サタンの試みにあわれた。そして獣もそこにいたが、御使たちはイエスに仕えていた。
とだけ書かれています
マルコによる福音書の目的は、クリスチャンへ福音をシンプルに伝えることですから、この出来事をマタイのように細部まで説明する必要がなかったということでしょう。
ルカによる福音書は、公の資料として多くの証言や証拠を元にキリストを伝えています。ですから、悪魔の誘惑の記事は、マタイに比べると、悪魔のセリフが少し詳しく書いてあります。時間の関係で省略しますが、違いとして一つ挙げるとルカによる福音書4章13節に、
4:13 悪魔はあらゆる試みをしつくして、一時イエスを離れた。
と書かれています。マタイでは、《悪魔はイエスを離れ去り、そして、御使たちがみもとにきて仕えた。》と書かれており、そして、ルカによる福音書では、御使いが仕えた記事は書かれていません。それは、手紙を書くコンセプトが違うからです。
マタイは、イスラエルが継承してきた神さまへの信頼と聖書の言葉が成就した点を強調した手紙であり、ルカは、公の資料として多くの証言や証拠を基にキリストを伝えています。
ルカは、時系列として悪魔の誘惑の試練が“十字架の死”という事実を伝える布石であり、また御使いの記事は証拠資料としては必要ないと判断したのでしょう。
3、教えられる試練の意味
今回は主に、マタイによる福音書よりイエス様の悪魔の誘惑の記事を見ていきました。
その中で学ぶべきことはシンプルです。冒頭でお話ししましたように、福音書は神の子であるキリストの存在を伝えるという大きな意義がある一方、あくまでも完全な人間として生きた記録でもあります。
キリストは、間違いなくただの人間であったのです。普遍的(時代や場所を超えて、当てはまる性質)な人間が受けるであろう、あらゆる試みを凝縮して受けました。
イエス様のご対応は、①神さまと神さまの御言葉に信頼を置くこと。そして、②偏見や屁理屈で聖書を見るのではなく、聖書の文脈を最も重要なこととして自分の人生に適用すること。この後、イエス様ご自身がお話になる、マタイによる福音書6章33節 ③《まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。》を実践したことです。
誘惑や試練は受けたくないものですが、誘惑を受けて戦う時、試練の時こそ、成長の時となり、後に自分だけではなく、誰かの大きな希望を伝える祝福の基となるのです。
2024年7月14日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:香川盛治
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