ショートメッセージ【イエス・キリスト⑤】

マタイによる福音書5章-7章
ルカによる福音書6章20-49節

山上の説教(背景と意図)

1、山上の説教の背景
2、イエス様が直接に本質を教える
3、神を信頼する者の大きな希望の指針として

1、山上の説教の背景
 いわゆる山上の説教、垂訓と呼ばれる箇所は、マタイによる福音書とルカによる福音書に書かれています。
 マタイは、イスラエル民族の始祖アブラハムからイエス様に至る系図が述べられ、そして、ご降誕、幼少期を経てバプテスマを受けられ、悪魔の試みを受けて後に宣教を開始したことを述べています。
 そして、イエス様が弟子を呼び、また、多くの人についていた悪霊を追い出したり、病気を癒したりしたことで、大ぜいの人が、イエス様のところへ近寄ってきたところで説教を始めます。
 マタイによる福音書5章1-2節を読みます。

5:1 イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。
5:2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。

 このように始まっていくわけです。マタイによる福音書は、イエス様のことを旧約聖書で預言された権威あるキリストであり、それにふさわしい人格や神さまを信頼する人、また力のあるお方であることを紹介している手紙です。マタイ7章28-29節には、

7:28 イエスがこれらの言を語り終えられると、群衆はその教にひどく驚いた。
7:29 それは律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである。

 と書かれていますので、それを一番の目的として書かれたことがわかります。
 ルカの福音書においても、よく似た文脈で書かれてはいますが、異なる点としては、マタイに比べると、内容はもっと大まかで短いということでしょう。

 そして、文脈においては、おおよそ時系列に書かれているのがルカの福音書です。
 イエス様が公けにキリストとしての働きを始めてから、多くのユダヤ人、特にパリサイ人や律法学者たちから、多くの本質のない議論や反論をなさった後に、山上の説教が始まります。つまり、本質的な教えが欠如している現実の中、イエス様を求めて、ついてきた弟子や群衆に対して真実で本質のある生き方を伝えていると言えばよいでしょうか。

 いずれにしましても、ルカではパリサイ人や律法学者たちから本質のない議論や反論に対して、イエス様が正しているように見えます。一方、マタイは絶対的なキリストとしての立場を示すために、その教えを詳細に書いています。ですので、詳細に書かれたマタイのほうをテキストにして見ていきましょう。

2、イエス様が直接に本質を教える
 山上の説教には、“たとえ話”は入っていますが、後に話される“たとえ話”などとは違い、単刀直入にお話しされているのが特徴的です。後のたとえ話についてイエス様は、マタイによる福音書13章10-16節で、

13:10 それから、弟子たちがイエスに近寄ってきて言った、「なぜ、彼らに譬でお話しになるのですか」。
13:11 そこでイエスは答えて言われた、「あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。
13:12 おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。
13:13 だから、彼らには譬で語るのである。それは彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである。
13:14 こうしてイザヤの言った預言が、彼らの上に成就したのである。『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。
13:15 この民の心は鈍くなり、その耳は聞えにくく、その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである』。
13:16 しかし、あなたがたの目は見ており、耳は聞いているから、さいわいである。

 と言っておられます。
 イザヤが生き、語った時代のように、何人もの預言者が立てられ、神さまの意図は語られているにもかかわらず、聞く耳のある人は、非常に少ない現実があったのです。
 現代の私たちにとっても山上の説教の内容は、自力では、とても到達しえない基準に見え、厳しい規約のように感じ、不自由に思えたりします。その理由は、山上の説教が、神さまがイスラエルの民に求める基準や領域が自分の考えや行いが遠く離れ、イザヤの預言どおり心は鈍く、聞く耳がない自分であることを教えられるからなのです。

3、神を信頼する者の大きな希望の指針として
 では、高く大きな基準を突きつけられるからといって、到達不可能な目標であるから無視して良いということになるのでしょうか。また、放っておいてよいのでしょうか。
 マタイはそのために、これほど詳細に山上の説教を残したのでしょうか。

 しっかり内容を見てみると、決してそうとは言えないことがわかります。
 マタイによる福音書5章3-12節を見てみましょう。

5:3 「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
5:4 悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。
5:5 柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。
5:6 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。
5:7 あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。
5:8 心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。
5:9 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。
5:10 義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
5:11 わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。
5:12 喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。

 弟子と群衆たちは、
 ローマの迫害下において、
 ユダヤを治める異邦の王の下において、
 多くの迫害の中にある苦しい現実において、
 イエス様を求めてきました。

 そのはじめのことばがここです。

 決して強制するような厳しい規則というばかりではなく、神さまは、苦しみの中にあっても、あなたたちの実質的な生き方を見ておられ憐れまれていること、神さまを信頼し歩む中において、必ず導きをいただけることを単刀直入に教えておられるのです。

 これは、神さまを求める者の特権とでも言えばよいのではないでしょうか。

 また、12節では、弟子たちや群衆たちのことを偉大な預言者たちと並列において、労ってさえいるのです。
 神さまと共に生きることの苦しみは、これまで迫害された預言者たちのように、また、そればかりではなく、大きな喜びや生きがいがあったことを私たちは旧約聖書の預言者たちから多く学んできたのではないでしょうか。 

2024年7月28日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:香川盛治

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