ショートメッセージ【イエス・キリスト⑥】

マタイによる福音書5章-7章
(山上の説教〈内容編〉)

1、神の民への励ましと生き方(5章3-16節)
2、神の民の生き方、心構え編(5章17-48節)
3、神の民の生き方、生活実践編(6章)
4、神の民の生き方、愛の実践編(7章)
5、イエス様の権威によって生きる

1、神の民への励ましと生き方(5章3-16節)
 前回、終わりにマタイによる福音書5章3-12節を読みました。イエス様についてきた弟子たちと群衆に向けて話す記事が山上の説教です。
 当時のイスラエルは、ローマ帝国に統治され、抑圧される立場にあり、現実の生活に苦しみ、病気や悪霊に苦しんでいた人たちが大勢いました。希望の光としてイエス様に従ってきた人たちばかりです。

 その人たちが苦しみの中にあっても神さまは、彼らの実質的な生き方を見られて、憐れまれていること、神さまを信頼し歩む中において、必ずお導きがあることを単刀直入に教えられたのです。
 マタイによる福音書5章13-16節を見てみましょう。

5:13 あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。
5:14 あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。
5:15 また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。
5:16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

 今、苦しみの中にいるあなたたちは神の前では、《地の塩》《世の光》であると仰っています。
 当時、生活の中で苦しみや、時に迫害があるのが神の民です。しかし、それは迫害されるだけには終わらないので、心を腐らせず、神さまに従う生き方を、善行をもって歩みなさいという励ましなのです。

2、神の民の生き方、心構え編(5章17-48節)
 ここでは、自分がどのような心持ちで生きていくべきかを教えてくださっています。5章20節では、

5:20 わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。

 と言われています。律法学者やパリサイ人は、称号や呼称は立派なのですが、実質的な指導や生活は神の民として歩めていないという大変皮肉な言い方をされています。そして、その実態については、福音書に多くの事例によって知ることができます。
 具体的に見てみましょう。
 ①兄弟を馬鹿にする者は人殺しと同様である。和解せよ。(5章21-26節)
 ②情欲をいだいて女を見る者は姦淫したのと同様。離縁状についての見解。(5章27-32節)
 ③何に対しても誓ってはいけない。(5章33-37節)
 ④報復するな。(5章38-42節)
 ⑤敵をも愛する心を持て。(5章43-48節)

 これらのロジックは、パリサイ人や律法学者の教えを逆手にとって本質を伝えているというスタイルであることがわかります。
 人の教えと実際の神さまの御心との大きな違いや差があることを教えられます。山上の説教を見る時は、一つひとつに注目し、自分の心は、パリサイ人や律法学者になっていないか。神の民として神さまの求める心であるのかを探るべき箇所です。

3、神の民の生き方、生活実践編(6章)
 同じように6章も見てみましょう。

 ①人にほめられるためにする善行は偽善。知られないようにせよ。(6章1-4節)
 ②神ご自身にのみに、心を注いで祈れ。祈りの本質を知れ。(6章5-15節)
 ③断食は、人にではなく、神さまへ心を注ぐ行為である。(6章16-18節)
 ④何よりも、まず神の国と神の義とを求めよ。(6章19-34節)

 やはり、ここでも“偽善者”の実践から、間違いを正してどのようにするべきかを説明されています。
 興味深い共通点は、人との関係ではなく、神さまとの関係を重視する点にあります。
 目に見える人間関係は言うまでもなく大切です。ここのポイントは“偽善者”との違いという点です。
 それは自分の誉れのための行為なのか。神さまを証しするための行為なのか。という違いでしょう。
 また、偽善者であっても、①から③までの行動だけならば人に見せるためにできます。

 そこでイエス様は、④において目に見えるものを大切にすることの虚しさを教え、目に見えない神さまにこそ、希望を置く生き方をするように勧めているのです。

 これは、現在、自分はクリスチャンと思っている人にとっても重要なポイントです。
 神の国と神の義を求めない。ということは“偽善者”と同じである。と書かれているところは注目すべきポイントです。
 自分が、このことを具体的な問題として自分に適用して、顧みることによって、文字通りのクリスチャンであるのか。“偽善者”であるのか。ということになるからです。

4、神の民の生き方、愛の実践編(7章)
 続けて7章も同じように見ていきましょう。

 ①自分の罪の深さを覚え、相手をさばかないように。(7章1-6節)
 ②神には求め、人には与えよ。(7章7-12節)
 ③良い実を結ぶ神の民となれ。(7章13-23節)
 ④キリストの生き方と教えを土台とせよ。(7章24-29節)

 6章では、偽善者であっても形だけならば出来るという話をしましたが、7章は偽善で出来ることではない内容であることがお分かりいただけると思います。
 実際に、神さまと供に生きる人でなければ実践できないレベルのことと言えばよいでしょうか。言い換えれば、イエス様を自分の主としていない人にとっては、求める価値すらないと言えるかもしれません。
 この7章は、真実に神さまと供に生きようとする人以外には、何も心に響くものがないのです。

5、イエス様の権威によって生きる
 しかし、神さまと供に生きたいと思うものにとっては大きな求めるべき魅力となるのです。
 マタイによる福音書7章28-29節を読みます。

7:28 イエスがこれらの言を語り終えられると、群衆はその教にひどく驚いた。
7:29 それは律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである。

 山上の説教は、何は無くとも、キリストを求めてきた人たちに語られたメッセージです。そしてマタイによる福音書はイスラエルが継承してきた神さまへの信頼と聖書の御言葉の成就した点を強調した手紙です。
 まさに預言されたキリストが、神さまへの信頼と人格のすべてをもって語られた権威そのものなのです。説得力があり、実際的な教えであることを覚えなければなりません。

 私たちは山上の説教を読む時に、この高い基準にとても到達できない。と考えます。しかし、多くの聖書箇所がそうであるように、できる、できないという考えの葛藤をするのではなく、そこに生きたいと、願うか。願わないのか。が、ポイントであるのではないでしょうか。

 このメッセージの結びの教えは、土台がキリストであるということです。あなたは、このキリストを主とし、神さまとし、土台として生きているか。いないか。が本質なのでしょう。
 この土台であるキリストの権威によって、山上の説教をはじめとした聖書を教訓として実践したいと願うことによって、少しずつキリストに似たものへと変えられていくのです。

2024年8月4日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:香川盛治

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