ショートメッセージ【イエス・キリスト⑦】

マタイによる福音書13章3-23節
(イエス様のたとえ話〈背景と意図〉)

1、たとえ話をする理由
2、山上の説教との比較から
3、ルカの福音書に多いたとえ話
4、耳のある者は聞くがよい

1、たとえ話をする理由
 マタイによる13章10-16節を読みます。

13:10 それから、弟子たちがイエスに近寄ってきて言った、「なぜ、彼らに譬でお話しになるのですか」。
13:11 そこでイエスは答えて言われた、「あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。
13:12 おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。
13:13 だから、彼らには譬で語るのである。それは彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである。
13:14 こうしてイザヤの言った預言が、彼らの上に成就したのである。『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。
13:15 この民の心は鈍くなり、その耳は聞えにくく、その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである』。
13:16 しかし、あなたがたの目は見ており、耳は聞いているから、さいわいである。

 前回まで“山上の説教”を見てきました。そこでも“たとえ”を使って説明をしている箇所がありますが、“たとえ”の用い方は、神さまと律法を解き明かすための補助として使われていることが分かりました。
 しかしイエス様は、それ以降の”たとえ”話では、イザヤ書を引用して、神さまを受け入れず、聞く姿勢のない者が、悟ることがないために“たとえ”を用いて話しているとおっしゃっています。
 ですから、イエス様が多くの場面で“たとえ”を使っているところは、悟る人が少ないことをわかっていて話されているということです。このことから、私たちは現代においても信仰の本質とは何かを教えられます。同じように聖書を読んでいても、教会の礼拝や集会に出席しても、13章12節の《おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。》という真理が継続しているという現実をおぼえる必要があります。

2、山上の説教との比較から
 山上の説教での“たとえ”を使って説明をしている箇所は、あくまでも神さまと律法を解き明かすための補助として使われていることを確認しました。

 聴衆のほとんどは、自分の意志でキリストについてきた弟子や、生活の苦しい中、病気の中で、キリストに希望を持ってついてきた人たちが多かったことがわかります。言い換えれば、キリストの語る言葉に聞く姿勢のある人たちが多かったということです。
 ゆえに、イエス様は、神さまにある励ましや善い生き方を率直に教えたのです。
 一方で、本質を悟ることが難しい“たとえ”を使った教えは、わかる人には、よりわかるように、わからない人には、何も本質を悟ることができないように書かれていることに注目しなければなりません。

 ”たとえ”話を読む時は(すべての聖書箇所に言えることですが)、注解書や牧師の意見を聞くよりも、まず自分で解き明かしてみることをお勧めします。
 聖書の文脈から、イエス様がどのような人に対して話している内容なのか。どのような歴史的、文化的背景がある中での“たとえ”であるのかという、本質を見抜く力を身につけなければ確信を持った神さまへの信頼に至らないのではないでしょうか。
 自分には聞く力が有るのか。無いのか。という知識や判断、それ以上に、神さまへ信頼する心がどうなのか。を点検できるのがイエス様の “たとえ”であると言えるでしょう。

3、ルカの福音書に多いたとえ話
 それぞれの3つの福音書に”たとえ”話は書かれています。
 私が数えてみると、マタイによる福音書は18回、マルコによる福音書は5回、ルカによる福音書は、“たとえ”と前提がない箇所をどうするかという議論はありますが26回、見つけることができました。

 マルコによる福音書が少ない理由は、福音をシンプルに説明することが目的であるために多くの“たとえ”を書く必要なかったというところでしょうか。
 マルコ独自の”たとえ”話は存在しないことからも、あくまでも文脈上に必要なポイントに書かれてあるといったところでしょう。

 マタイによる福音書は、イエス様がキリストである預言やそれに伴う人格的な根拠と信仰の継承がテーマなので、“たとえ”を使ったキリストの意図まで書いてあるのでしょう。
 他の福音書にないマタイ独自の”たとえ”話は10回でした。

 ルカがとても多い理由は、現在で言えば裁判に提出するための資料であり、キリストの能力や人格的視点を説明する必要があるからだと推測できます。また、それは確かに語られたことで、聞いた人たちを辿って調査し確かめ、事実であることを立証するものとなっています。他の福音書にないルカ独自の”たとえ”話は18回もありました。

4、耳のある者は聞くがよい
 3つの福音書に共通して書かれている“種まきのたとえ話”をマタイによる福音書から見てみましょう。
 マタイによる福音書13章3-9節を読みます。

13:3 イエスは譬で多くの事を語り、こう言われた、「見よ、種まきが種をまきに出て行った。
13:4 まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。すると、鳥がきて食べてしまった。
13:5 ほかの種は土の薄い石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、
13:6 日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
13:7 ほかの種はいばらの地に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまった。
13:8 ほかの種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。
13:9 耳のある者は聞くがよい」

 この後、イエス様は、冒頭の聖書箇所である“たとえ”で説明する理由を弟子たちに話したのちに、解き明かしをされます。マタイによる福音書13章19-23節です。

13:19 だれでも御国の言を聞いて悟らないならば、悪い者がきて、その人の心にまかれたものを奪いとって行く。道ばたにまかれたものというのは、そういう人のことである。
13:20 石地にまかれたものというのは、御言を聞くと、すぐに喜んで受ける人のことである。
13:21 その中に根がないので、しばらく続くだけであって、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう。
13:22 また、いばらの中にまかれたものとは、御言を聞くが、世の心づかいと富の惑わしとが御言をふさぐので、実を結ばなくなる人のことである。
13:23 また、良い地にまかれたものとは、御言を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである」。

 ここで悟るべきこととは、自分の心の状況はどの土地であるかを点検することです。果たして神さまの言葉を聞いて受け入れて成長した実を結んでいるのかと。

 個々の箇所はイエス様ご自身が解き明かしをしてくださっていますので解き明かしを知るという点では容易です。しかし、それを悟るかどうかを主なる神さまが望んでおられることを忘れてはいけません。イエス様の”たとえ”話は、まさしく聞く耳がなければ手に入らず、あなたの人生に実をならすことができないのですから。

2024年8月11日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:香川盛治

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