ショートメッセージ【イエス・キリスト⑧】

マタイによる福音書13章10-13節
マルコによる福音書2章13-22節
(イエス様のたとえ話〈内容編〉)

1、イエス様のたとえ話のポイント
2、古い服に新しい布を継ぐこと 新しいぶどう酒と古い皮袋
3、たとえ話を教訓とできる幸い

1、イエス様のたとえ話のポイント
 はじめに、マタイによる福音書13章10-13節を読みます。

13:10 それから、弟子たちがイエスに近寄ってきて言った、「なぜ、彼らに譬でお話しになるのですか」。
13:11 そこでイエスは答えて言われた、「あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。
13:12 おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。
13:13 だから、彼らには譬で語るのである。それは彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである。

 前回も見ましたように、イエス様のたとえ話は、心が、神さまに向いていない人には、その話し本質を伝えないことにありました。
 ですから、その多くは、イエス様へ異論や反対する立場の人たちへの、反論的な比喩として用いていたことがわかります。しかし、言い換えれば、神さまに心を向けて生きる人には、その本質を知ることができ、人生の豊かな教訓となると言えます。

 このような理由から、たとえ話は、自分でどのような文脈において書かれているのかを調べながら解釈し、自分に適用することに意味がありますので、ここでは一覧表にした、たとえ話を紹介しません。

 それぞれの福音書には、著者がそれぞれの読者に対する意図があって書かれていますので、同じ内容の箇所であっても強調点や注目の場所が変わります。ですから、場合によっては、その文脈を大きく損ねてしまう可能性があるからです。(言葉だけを揃えた組織神学と変わらない解釈ができます)どうしても知りたい人はインターネットで検索すると、たくさんヒットことでしょう。むしろ、ここからは私が一つ(二つ?)だけですが、たとえ話を解釈していきますので、皆さんの日々の聖書読解のひとつの例として見てくだされば幸いです。

2、古い服に新しい布を継ぐこと 新しいぶどう酒と古い皮袋
 この箇所は、マタイによる福音書9章14-17節、マルコによる福音書2章18-22節、ルカによる福音書5章33-39節中に書かれています。
 ここではマルコによる福音書を見ていきましょう。2章13-22節を読みます。

2:13 イエスはまた海べに出て行かれると、多くの人々がみもとに集まってきたので、彼らを教えられた。
2:14 また途中で、アルパヨの子レビが収税所にすわっているのをごらんになって、「わたしに従ってきなさい」と言われた。すると彼は立ちあがって、イエスに従った。
2:15 それから彼の家で、食事の席についておられたときのことである。多くの取税人や罪人たちも、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。こんな人たちが大ぜいいて、イエスに従ってきたのである。
2:16 パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちと食事を共にしておられるのを見て、弟子たちに言った、「なぜ、彼は取税人や罪人などと食事を共にするのか」。
2:17 イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。
2:18 ヨハネの弟子とパリサイ人とは、断食をしていた。そこで人々がきて、イエスに言った、「ヨハネの弟子たちとパリサイ人の弟子たちとが断食をしているのに、あなたの弟子たちは、なぜ断食をしないのですか」。
2:19 するとイエスは言われた、「婚礼の客は、花婿が一緒にいるのに、断食ができるであろうか。花婿と一緒にいる間は、断食はできない。
2:20 しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その日には断食をするであろう。
2:21 だれも、真新しい布ぎれを、古い着物に縫いつけはしない。もしそうすれば、新しいつぎは古い着物を引き破り、そして、破れがもっとひどくなる。
2:22 まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそうすれば、ぶどう酒は皮袋をはり裂き、そして、ぶどう酒も皮袋もむだになってしまう。〔だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである〕」。

 イエス様は、パリサイ派の律法学者たちに、たとえ話をしています。
 彼らは、イエス様が取税人や罪人と食事をしていることに文句をつけています。
 イエス様はそれにお答えになると、彼らは次に、バプテスマのヨハネの弟子とパリサイ人は断食をしているのに、あなたたちはなぜ、断食をしていないのかと文句を言うのです。
 それに対してイエス様は、たとえ話で答えられました。つまり、また文句を言ってくる人たちに、彼らが悟ることはないことを受けて、たとえ話をしていることがわかります。

 断食(νηστεύουσιν)は、現在進行形で書かれていますので、おそらく今、まさに、バプテスマのヨハネの弟子たちとパリサイ人の弟子たちとが断食をしている最中であると考えるのが自然ですが、そうでないとしても、言いがかりとして文句を言っているということは何も変わりません。
 そこで、イエス様は、ご自分を花婿に、一緒に食事をしてる人たちを花嫁に譬えて反論しています。

 断食は、神さまに心を向けて憐みを請うことが本質です。にもかかわらず、結婚式のようにイエス様と付いてきた人たちが喜んでいる状況で、断食は行えないこと。
 そして、花婿と離れ離れにならなければならないような状況になれば、神さまの前に憐みを請うような思いとなり、断食をするような心持ちになるでしょう。と伝えているのです。
 言い換えれば、バプテスマのヨハネの弟子たちは、神さまの前に憐みを請うような思いで断食しているけれども、バプテスマのヨハネの弟子たちと同じように、断食しているあなたたちパリサイ人は、その本質を理解されてますか。と皮肉なことを伝えています。

 そして、今回の箇所のたとえ話となります。長くて申し訳ありませんが、いかに文脈が大事であるかをお話しするためですのでお許しください。

 そのようなパリサイ人に、2章21節《だれも、真新しい布ぎれを、古い着物に縫いつけはしない。もしそうすれば、新しいつぎは古い着物を引き破り、そして、破れがもっとひどくなる。》とおっしゃいました。
 このお話は、あなたがたのように、ただ伝統や形を大切にする人たちは、古い布切れのように価値はなく間違いであること、本質をしっかり保つために、伝統や形だけの在り方を変えようとしている人たちには、合わない点を強調しているのです。

 パリサイ人たちの本質のない在り方は、かえって誰の役にも立たないことを伝えているのです。
 同時に、2章22節《まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそうすれば、ぶどう酒は皮袋をはり裂き、そして、ぶどう酒も皮袋もむだになってしまう。〔だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである〕」。》というのもほぼ同じ意味で、さらに役に立たないことを強調していることがわかります。

 古い皮袋は、伝統や形式だけで、断食をしているような神さまとの関係を現わしています。
 本質的な神さまへの信頼や在り方を求める人たちのことを、ぶどう酒に、たとえているといったところでしょうか。
 あなたたちは、それを受け入れることはできず、多くの人たちを受け入れて神さまに導く器となることができないどころか、あなたたちも存在できなくなり、そのような人たちをも巻き込むひどい人たちであることを書いています。

3、たとえ話を教訓とできる幸い
 このように、たとえ話はその箇所だけではなく、前後の文脈を追っていき、さらにその時代背景を探っていけば解釈は難しくありません。

 解釈を間違うとすれば、聖書の読み方をパリサイ人たちのように伝統や形式からしか解釈し、判断できないときにありえるでしょう。

 少し厳しい言い方ですが、聖書の文脈をなるべくシンプルに、そして自分自身の心を探るために読み、適用しないならば、パリサイ人たちと何も変わらないというのが、今回学んだ聖書箇所の教訓です。

 たとえ話の多くはイエス様を試したり、意見したりする人たちへの反論や教訓です。
 特に、ルカによる福音書では多くあります。これは現在を生きる私たちに、多くの知恵を与えてくれます。
 イエス様を求める人にとっては、たとえ話を文脈からしっかり解き明かし、自分の聖書の読み方や神さまとの関係の在り方、自分の罪や弱さを探る道具にできます。まさに、マタイ13章12節の《おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。》という言葉が、あなたの人生に成就します。

 そして12弟子たちは、悟るのは遅いのですが、少しずつ多くの譬え話を聞き、その本質を学んでいく中で、イエス様に意見する者の傾向や対策を学ぶことができました。
 現代の私たちも同じです。相手に本質が伝わらないならば、たとえ話をはじめとして相手の状況に合わせた対応が必要です。

 本日学んだ箇所においても、相手の望んでいることやこだわりなどをイエス様はよく観察して対応しています。
 相手に伝わらなければどんなに良い話をしていても無意味です。古今東西、誰しも自分の価値観が合わない人は存在します。

 12弟子のように、その本質そのものを伝えるべき人か、まだ本質を知らない人ならば、どのような話題や内容が良いか。敵対する人にはどのように対応するべきか。など、たとえ話だけではなく、その文脈や歴史的背景を探ることで、私たちの人間関係に役立つ教えがたくさんあるのです。

2024年8月18日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:香川盛治

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