ショートメッセージ【イエス・キリスト⑨】

マルコによる福音書6-8章 
ヨハネによる福音書11章

(イエス様の奇跡の軌跡から)

1、イエス様がキリストであることを示すため
2、神の栄光や権威を示すため
3、人を愛するため
4、奇跡の本質は軌跡の中にある

1、イエス様がキリストであることを示すため
 マルコによる福音書6章37-44節では、クリスチャンの中で一般的に5千人の給食と名付けられる箇所が出てきます。
 男性だけで5千人の民衆に、5つのパンと2匹の魚を満腹するほどに分け与えて、余ったパンや魚を集めると12のかごにいっぱいになったという聖書の中でも有名な奇跡です。

 さらに、マルコによる福音書8章1-9節では、4千人の人々に7つのパンと小さな少しの魚を配って満腹させ、残ったパンくずを集めると7つのかごになったと書かれています。
 その後にパリサイ人がイエス様を試すために天からのしるしを求める記事が書かれています。そこで、イエス様はこのようにおっしゃいました。
 マルコによる福音書8章12節です。

8:12 イエスは、心の中で深く嘆息して言われた、「なぜ、今の時代はしるしを求めるのだろう。よく言い聞かせておくが、しるしは今の時代には決して与えられない」。

 つまり、イエス様は多くのしるし=奇跡を行う力があるのですが、奇跡(神さまによる神さまのしるし)自体を求めることを良しとしていないことがわかります。
 そのことを弟子たちに伝えるイエス様と弟子たちの様子を見てみましょう。
 マルコによる福音書8章14-21節です。

8:14 弟子たちはパンを持って来るのを忘れていたので、舟の中にはパン一つしか持ち合わせがなかった。
8:15 そのとき、イエスは彼らを戒めて、「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とを、よくよく警戒せよ」と言われた。
8:16 弟子たちは、これを自分たちがパンを持っていないためであろうと、互に論じ合った。
8:17 イエスはそれと知って、彼らに言われた、「なぜ、パンがないからだと論じ合っているのか。まだわからないのか、悟らないのか。あなたがたの心は鈍くなっているのか。
8:18 目があっても見えないのか。耳があっても聞えないのか。まだ思い出さないのか。
8:19 五つのパンをさいて五千人に分けたとき、拾い集めたパンくずは、幾つのかごになったか」。弟子たちは答えた、「十二かごです」。
8:20 「七つのパンを四千人に分けたときには、パンくずを幾つのかごに拾い集めたか」。「七かごです」と答えた。
8:21 そこでイエスは彼らに言われた、「まだ悟らないのか」。

 このように弟子たちも、イエス様がおっしゃったことを理解していないのです。
 弟子たちは、パリサイ人とイエス様のやりとりを見ていたのですが、なぜか、その前に行ったパンのことに注目しています。
 15節の《「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とを、よくよく警戒せよ」》という文脈から“パン種”という言葉にだけ注目し、パンを持ってこなかったことを互いに議論していた始末ですから。イエス様は、そのような弟子にこのように伝えました。

 さらに、マルコによる福音書8章17-21節を見てみますと、弟子たちはずっとイエス様と一緒にいましたが、力ある奇跡という現象に心を留めるのではなく、悟るべきは、奇跡(神さまによる、神さまのしるし)を起こすイエス様こそ、力あるキリストであることを悟ることはできないのか。と嘆かれているということです。

 8章29節で、ペテロは、《「あなたこそキリストです」。》(8章29節)と告白し、イエス様はご自分の在り方を示されていきます。
 これらの文脈は、今の私たちにも同様に《まだ悟らないのか》と指摘されてる箇所ではないでしょうか。
 目の前の目に見えることだけで判断したり、自分勝手な祈りが聞かれないと「なぜですか」と神さまを評価したりする姿はないでしょうか。
 ともかく、イエス様の奇跡は、その奇跡を通してキリストであるイエス様を見出さないならば、なにも悟っていないということがわかります。

2、神の栄光や権威を示すため
 奇跡は、イエス様の行われた奇跡だけではなく、神さまのご栄光や権威を示すために行われます。
 わかりやすい記事としてはヨハネによる福音書11章の「ラザロのよみがえり」と呼ばれる記事が有名です。簡単に説明しますと、ラザロと言う人が病気で死にそうなときに、イエス様は、このようなやり取りをされました。
 ヨハネによる福音書11章3-4節です。

11:3 姉妹たちは人をイエスのもとにつかわして、「主よ、ただ今、あなたが愛しておられる者が病気をしています」と言わせた。
11:4 イエスはそれを聞いて言われた、「この病気は死ぬほどのものではない。それは神の栄光のため、また、神の子がそれによって栄光を受けるためのものである」。

 イエス様は、あえてすぐには行かず、ラザロが亡くなってからラザロの墓を訪ねることになりでます。そこで、イエス様はこのように話されました。
 ヨハネによる福音書11章38-44節です。

11:38 イエスはまた激しく感動して、墓にはいられた。それは洞穴であって、そこに石がはめてあった。
11:39 イエスは言われた、「石を取りのけなさい」。死んだラザロの姉妹マルタが言った、「主よ、もう臭くなっております。四日もたっていますから」。
11:40 イエスは彼女に言われた、「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」。
11:41 人々は石を取りのけた。すると、イエスは目を天にむけて言われた、「父よ、わたしの願いをお聞き下さったことを感謝します。
11:42 あなたがいつでもわたしの願いを聞きいれて下さることを、よく知っています。しかし、こう申しますのは、そばに立っている人々に、あなたがわたしをつかわされたことを、信じさせるためであります」。
11:43 こう言いながら、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれた。
11:44 すると、死人は手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたまま、出てきた。イエスは人々に言われた、「彼をほどいてやって、帰らせなさい」。

 ラザロや姉であるマルタとマリヤの神さまへの信頼のゆえに示された神さまのご栄光であったのです。

3、人を愛するため
 これらの奇跡は、イエス様ご自身がキリストであり、神さまの栄光を現わすために行われたものですが、もう一つの大きな意味はイエス様をキリストと信じる者が、祝福を受ける手段であるという点は大切な視点です。
 「五千人の給食」の奇跡では、群衆を憐み、食事を与えることが目的でした。
 また、「ラザロのよみがえり」では、永遠に生きるひな形としてラザロが用いられました。後に神さまを信頼する者への希望となったという点です。
 節は、戻りますが、ヨハネによる福音書11章25-27節です。

11:25 イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。
11:26 また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。
11:27 マルタはイエスに言った、「主よ、信じます。あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の御子であると信じております」。

 ですから、奇跡の本質の一端として隣人を愛する心からの行動であるということが本質です。その点がないならば、奇跡はただ不思議な出来事であり、信じるに値しない“たとえ”やおとぎ話にすぎないという間違ったキリスト教の出来上がりとなってしまうのです。

4、奇跡の本質は軌跡の中にある
 このように、奇跡の行われた箇所は当時のパリサイ人や弟子たちのように奇跡の現象自体に注目するべきではなく、奇跡の行われた文脈から本質を悟ることが大切です。
 多くの奇跡を調べたり、分類したりすることは意義深いことではありますが、それ以上に読者自身が奇跡の行われたその文脈をしっかり把握し、自らがその真実の物語の中に入って本質を探ることに意味があるのです。
 最後に、マルコによる福音書12章28-37節を読みます。

12:28 ひとりの律法学者がきて、彼らが互に論じ合っているのを聞き、またイエスが巧みに答えられたのを認めて、イエスに質問した、「すべてのいましめの中で、どれが第一のものですか」。
12:29 イエスは答えられた、「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。
12:30 心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
12:31 第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない」。
12:32 そこで、この律法学者はイエスに言った、「先生、仰せのとおりです、『神はひとりであって、そのほかに神はない』と言われたのは、ほんとうです。
12:33 また『心をつくし、知恵をつくし、力をつくして神を愛し、また自分を愛するように隣り人を愛する』ということは、すべての燔祭や犠牲よりも、はるかに大事なことです」。
12:34 イエスは、彼が適切な答をしたのを見て言われた、「あなたは神の国から遠くない」。それから後は、イエスにあえて問う者はなかった。
12:35 イエスが宮で教えておられたとき、こう言われた、「律法学者たちは、どうしてキリストをダビデの子だと言うのか。
12:36 ダビデ自身が聖霊に感じて言った、『主はわが主に仰せになった、あなたの敵をあなたの足もとに置くときまでは、わたしの右に座していなさい』。
12:37 このように、ダビデ自身がキリストを主と呼んでいる。それなら、どうしてキリストはダビデの子であろうか」。大ぜいの群衆は、喜んでイエスに耳を傾けていた。

 あなたは、イエス様の奇跡から何を学ぶでしょうか。預言されてきた普遍的な権威や力を聖書自体から“学ぶひとり”となっているでしょうか。

2024年8月25日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:香川盛治

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