ショートメッセージ【サマリヤの女①】

ヨハネによる福音書4章1-10節
(疲れを覚えたイエス様)

1、サマリヤ人
2、イエス様の働きかけ

 本日から5回にわたって、サマリヤの女性について見ていきましょう。
 この記事全体は、イエス様がサマリヤの女性に伝道(イエス様を信じることで大いなる恵みが与えられることを伝え広める=布教)されたことが書かれています。

 この記事は、4つの福音書(マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ)のうち、ヨハネによる福音書にしか登場しません。
 イエス様が“サマリヤの女性”に、どのように伝道されたのかを一緒に見ていきましょう。

1、サマリヤ人
 ヨハネによる福音書4章1-3節を読みます。

4:1 イエスが、ヨハネよりも多く弟子をつくり、またバプテスマを授けておられるということを、パリサイ人たちが聞き、それを主が知られたとき、
4:2 (しかし、イエスみずからが、バプテスマをお授けになったのではなく、その弟子たちであった)
4:3 ユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。

 まず、ここまでのイエス様の歩みを振り返ります。
 バプテスマのヨハネからバプテスマを受けられて、イエス様は、公生涯(伝道活動)を開始されました。ヨハネによる福音書では、荒野での試みの記事は省略されています。

 その後イエス様は、弟子たちを連れてヨルダン川のほとりから、ガリラヤのカナに向かい、婚礼に出席されます。そして、ガリラヤ湖畔のカペナウムに滞在され、過越しの祭りに合わせて、エルサレムに向かわれます。
 神殿において“宮きよめ”をされ、エルサレムの滞在中に、ニコデモの訪問を受けます。

 イエス様は、この後、弟子たちとユダヤ地方に行かれ、バプテスマのヨハネとともに人々にバプテスマを授けます(実際にはイエス様ではなく弟子たちがしていたようです)。

 神さまに心を向けていたニコデモのような人でも、バプテスマのヨハネが、人々に伝えようとしていた真意、意図を十分に理解できていませんでした。
 そこで、イエス様は、ご自身の働きではなく、バプテスマのヨハネの働きを助ける必要をおぼえて、バプテスマのヨハネと共に、イエス様の弟子たちにバプテスマ運動を手伝わせておられたのです。

 マタイによる福音書・マルコによる福音書・ルカによる福音書(以下「共観福音書」といいます。)では、イエス様の公生涯の最初の時に、すでにバプテスマのヨハネが投獄されたと書かれています(マタイ4章12節 他)。
 ヨハネによる福音書では、バプテスマのヨハネの投獄のことは記されていませんが、イエス様がバプテスマのヨハネの助けをされていた3章の後半から、本日の4章までの間に、バプテスマのヨハネが牢に入れられたと考えられます。

 当時、バプテスマのヨハネのことを旧約聖書が約束する“メシヤ=救い主”だと信じていた人も少なからずいたようです。そのバプテスマのヨハネが捕らえられてしまったので、人々の間に失望感が漂い始めていたのでしょう。そこで、イエス様は、ご自身が“メシヤ=救い主”であることを示し、人々の目を自分に向けさせる必要がある。と考えられたと思われます。

 共観福音書が、バプテスマのヨハネの投獄のタイミングで、イエス様の公生涯のはじめと記しているのは、このような理由だからでしょう。

 そして、ガリラヤに向かわれたのは、神殿のあるエルサレムでの当時の指導者たちが、間違ったユダヤ教の理解と教え(民衆へ)をしていたので、その影響が、イエス様の働きの妨げになると考えられたということでしょう。
 ヨハネによる福音書4章4節と9節を続けて読みます。

4:4 しかし、イエスはサマリヤを通過しなければならなかった。

4:9 すると、サマリヤの女はイエスに言った、「あなたはユダヤ人でありながら、どうしてサマリヤの女のわたしに、飲ませてくれとおっしゃるのですか」。これは、ユダヤ人はサマリヤ人と交際していなかったからである。

 この4節と9節の理解をするためには、イスラエルの歴史的な背景を知る必要があります。

 この時代のイスラエルは、北からガリラヤ、サマリヤ、ユダヤと3つの行政区に分かれていました。
 歴史的にはイスラエルは1つの国でしたが、ソロモン王のあと、北イスラエル王国と南ユダ王国に分かれます。北イスラエル王国の中心は、サマリヤでした。
 北イスラエルが、アッスリヤに滅ぼされた時、アッスリヤからサマリヤに多くの移民があり、サマリヤ地方のユダヤ人が、アッスリヤ人とまじりあい、純血ではなくなります。そして、イスラエルのまことの神さまでだけでなく、異教の神々をも礼拝する人々がサマリヤ人となりました。

 そういう理由から、ユダヤ人たちはサマリヤ人を嫌っていたのです。
 南ユダのユダヤ人たちもバビロニア帝国に滅ぼされました。
 バビロン捕囚といって、多くのユダヤ人がバビロニア帝国の首都バビロンに連れていかれるのですが、そこで彼らは、ユダヤ人としての純血を守り通しました。
 その後、ユダヤの国(地)に戻り、バビロン捕囚の反省から、まことの神さまだけを礼拝する民となります。それで、サマリヤ人を異教の神々を礼拝する民として嫌い、一切の関わりを持たないでいたのです。

 彼らは、バビロン捕囚後に神殿再建の協力を申し出たサマリヤ人の申し出を断ります。断わられたサマリヤ人は、モーセが祝福の山といったゲリジム山に神殿を築いてモーセ五書のみを正典と定めました。
 紀元前2世紀にシリヤのアンティオコス・エピファネスがユダヤ人根絶をはかったときには、サマリヤ人は、自分たちはユダヤ民族ではないと主張し、ゲリジム山の神殿に異教の神(ジュピター神)を安置します。その後BC128年頃、ハスモン朝の創始者ヨハネ・ヒルカノスが、ゲリジム山の神殿を破壊して以来、ユダヤ人とサマリヤ人の交流が途絶えます。

 ちなみに、ガリラヤはどうだったのでしょうか。
 ガリラヤも北イスラエルの一部でしたから、アッスリヤからの移民が来ました。しかしBC80年に、ユダヤ人の国となり、イエス様の時代には、イスラエルのまことの神を礼拝する人々となっていました(新聖書辞典)。
 エルサレムの宗教指導者たちの悪影響がなく、イスラエルのまことの神さまを礼拝する彼らは、イエス様にとって伝道を始められるのに最も適した対象だったのです。

 しかしイエス様は、そのガリラヤに向かわれる前に、サマリヤを通られました。
 4節で《サマリヤを通過しなければならなかった。》とありますから、早くガリラヤに行きたくて近道をしたということではなく目的がありました。

2、イエス様の働きかけ
 ヨハネによる福音書4章10節を読みます。

4:10 イエスは答えて言われた、「もしあなたが神の賜物のことを知り、また、『水を飲ませてくれ』と言った者が、だれであるか知っていたならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう」。

 この箇所を見ると、イエス様は、単に女性から飲み水を得たかったというわけではなく、この女性に自分のことを伝えよう、この女性が自分のことを信じて恵みを受けるようになされようとしていることが分かります。
 少し戻って4章5-7節を読みます。

4:5 そこで、イエスはサマリヤのスカルという町においでになった。この町は、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにあったが、
4:6 そこにヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れを覚えて、そのまま、この井戸のそばにすわっておられた。時は昼の十二時ごろであった。
4:7 ひとりのサマリヤの女が水をくみにきたので、イエスはこの女に、「水を飲ませて下さい」と言われた。

 5節で、ヤコブがヨセフに与えた土地という表現があえて記されています。ヤコブが神さまから約束された土地、このサマリヤの人たちも神さまの約束の地に住む神の民だということを言っているのです。
 6-7節では、神の御子イエス様ですが、人としての肉体を持たれていて、私たちと同じように疲れ、また、のどの渇きをおぼえておられることが分かります。

 人としての肉体を持って、私たちの世にきてくださったイエス様は、私たち人の弱さや痛みを知り思いやることのできるお方なのです。
 人の弱さ、痛みを知っておられるイエス様だからこそ、あえてサマリヤを通られたのです。
 サマリヤ人は、もとはユダヤ人と同じイスラエルの神の民でした。しかし今や、ユダヤ人たちから、異教徒の扱いを受け、見下げられてきたのです。異教の神々の祭壇があったとしても、同じイエスラエルの民として彼らも“救い主=メシヤ”の到来を待ち望んでいたのです。

 そんなエルサレムのユダヤ人以上に、色づいて刈入れを待っていたサマリヤの人たちをイエス様は刈り取るために(ヨハネ4章35節)、つまり、イエス様を信じて恵みに与ることができるようにわざわざサマリヤに寄られたのです。

 今回は、疲れをおぼえながら、民の救いのためにと敢えてサマリヤを通られたイエス様の姿を見ました。

 イエス様は、この後、私たちの罪が赦されるようにと、自ら十字架にかかられます。
 旅の疲れとのどの渇きをおぼえる私たちと同じ肉体をもって、自ら十字架にかかってくださいました。十字架刑は、当時この地域一帯を支配するローマ帝国が、最も人を痛み苦しめて見せしめとするために採用していた刑罰でした。

 神経の集中する手首の骨に貫かれた太い釘、それだけで気絶するほどの痛みだそうです。
 十字架がたてられたら、全体重が打ち抜かれたくぎにかかります。そしてすぐに肩が脱臼し、体が下がり呼吸ができなくなります。呼吸するために体を持ち上げる、そのたびに手首と肩に激しい痛みが走ります。背中は荒削りの十字架にこすれ、傷つき血が流れ続けます。
 イエス様は、この肉体で、十字架の苦しみを、痛みを経験してくださいました。それは、イエス様のことを記した聖書によると私たちの罪のためでした。

 死んで葬られましたが、神さまはこのイエス様を3日目によみがえらせました。そして、それを信じるすべての人の罪が赦されるのです。

 さらに、この世の終わりまで、いつも私たちと共にいると約束してくださっています。
 そのようなお方が、私たちを憐れんでくださらないはずはありません。良くしてくださらないはずがありません。イエス様は、日々の私たちのすべての痛み、すべての苦しみをよくご存知です。

 私たちは、試練を通らされても、二度と起き上がることのできないような倒れ方はしません。私たちの痛み、苦しみを一番ご存知のイエス様が、あなたの苦しみはすべて私の苦しみ、あなたの痛みはすべて私の痛みとされて、必ずイエス様が、私たちをお支えくださいます。

 そんなイエス様をおぼえて、ますますイエス様により頼みましょう。そして、いつも感謝いたしましょう。まだ信じておられない方は、信じて私たちと共にイエス様にお支えいただきましょう。

 次回から、サマリヤの女性を憐れみ、追い求められたイエス様を見ていきます。

2024年9月8日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:香川尚徳

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