メッセージ【イエス・キリストの系図③】
マタイによる福音書1章16-23節
ヨハネによる福音書1章1-14節
(ご聖霊による)
1、処女降誕 「アダムの性質を宿さない」
2、夢の中のお告げ「罪から救う者」― 御使い
3、聖書の預言成就
4、従順な応答
これまで2回に分けて学びました、イエス様のルーツの女性たちを見ることによって、このイエス様が神さまに遣わされたメシヤ、すなわちキリストであることがお分かりになったと思います。しかし、マタイによる福音書1章16節には、
1:16 ヤコブはマリヤの夫ヨセフの父であった。このマリヤからキリストといわれるイエスがお生れになった。
とあります。15節までの系図を見ると、父親の名前が書き連ねてありますが、ここでは、《マリヤの夫ヨセフ》と書かれているだけで、「ヨセフはイエスの父」とは書かれていません。書かれているのは《このマリヤからキリストといわれるイエスがお生れになった。》と書かれてあります。言うなれば、イエス様は人間の生みの父親をもっておられなかったのです。1~17節まででイエス様の系図が書かれてありますが、ほかにイエス・キリストのルーツがあるのです。それが、マタイによる福音書1章18節以降のご聖霊による誕生の話です。
1、処女降誕 「アダムの性質を宿さない」
マタイによる福音書1章18節を読みます。
1:18 イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリヤはヨセフと婚約していたが、まだ一緒にならない前に、聖霊によって身重になった。
ご聖霊によるイエス様の誕生は、マリヤの処女降誕によって証しされています。
2人がまだ正式な結婚をしないうちに、マリヤは身ごもりました。このとき、2人は婚約中でした。当時のイスラエル婚約における慣習は2ステップあって、1ステップ目は、それぞれの両親が自分たちの子どもを結婚させるように決めます。2ステップ目は、2人は結婚をするための準備をします。マリヤが妊娠した時、2人は2ステップ目の婚約の状態です。ですから、ヨセフの反応は婚約破棄でした。
マタイによる福音書1章19節読みます。
1:19 夫ヨセフは正しい人であったので、彼女のことが公けになることを好まず、ひそかに離縁しようと決心した。
2ステップ目の婚約になると、法的には離婚と同じ手続きを踏みます。
ですから、ヨセフは《ひそかに離縁しようと決心した。》のです。しかし、これはヨセフの身勝手な行動ではありません。むしろその逆で、《夫ヨセフは正しい人》とヨセフの評価が書かれていますから、マリヤを愛し、離婚が適切な対処と考えました。理由は、《彼女のことが公けになることを好まず、》とあるからです。
律法によると、もしマリヤに婚前交渉が発覚すれば、彼女は石打ちの刑で殺されなければならなかったからです。ヨセフがこのような行動をとったことからも、イエス様はヨセフの実の子どもでないことがわかります。ですから、マリヤがまだ処女であった時に、イエス様は、マリヤの胎におられたのです。
2、夢の中のお告げ「罪から救う者」― 御使い
そこで神さまは、マリヤに起こっている事と身ごもった赤ちゃんの正体を説明するために、御使いと聖書の預言によってヨセフに知らせています。
マタイによる福音書1章20-21節を読みます。
1:20 彼がこのことを思いめぐらしていたとき、主の使が夢に現れて言った、「ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。
1:21 彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。
御使いは先ず、イエス様は、ご聖霊によってお生まれになったことを告げています。つまり、イエス様は人間からではなく神から来られた方です。人間としてはマリヤから生まれましたが、本当のルーツは、天地万物をご創造された神さまなのです。
そして次に、《その名をイエスと名づけなさい。》と、御使いは命じています。
「イエス」というの名称は、ギリシャ語で、旧約聖書のヘブル語ではヨシュアです。
「עַ שֻׁ֣וֹהיְ」←右から読む(yə-hō-wō-šu-a‘)「ヤハウェは救い」となります。つまり、「イエス」とは、“主が救い”という意味なのです。ですから、マタイによる福音書1章21節で御使いが、《その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。》と言ったのは、神さまが人間を罪から救い出すためにお送りになられた救い主であるという意味が含まれています。
3、聖書の預言成就
マタイによる福音書1章22-23節を読みます。
1:22 すべてこれらのことが起ったのは、主が預言者によって言われたことの成就するためである。すなわち、
1:23 「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。これは、「神われらと共にいます」という意味である。
イエス・キリストは、神のひとり子であり、神さまから遣わされた救い主だけではなく、神ご自身です。神が人の姿をとられることによって、私たち人間に近づいてくださいました。
ヨハネによる福音書1章1-14節には、次のように書かれています。
1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
1:2 この言は初めに神と共にあった。
1:3 すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
1:4 この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。
1:5 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
1:6 ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った。
1:7 この人はあかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。
1:8 彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきたのである。
1:9 すべての人を照すまことの光があって、世にきた。
1:10 彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。
1:11 彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。
1:12 しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。
1:13 それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。
1:14 そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。
人の姿をとられた神、その御方がイエス・キリストです。
神さまは、ご自分が人間の姿をとられることによって、私たちが神さまを知るようになることを願われています。神さまがどれほど人間に心をかけてくださっているかを人間が知るためには、神さまご自身が、人間になられることは必要だったのです。
目に見えるものに頼りやすい偶像に弱い私たちへ、肉体をもってあらわされたのです。神さまの性質をもった御方が人として人々と交わり、神という人格(=神格)が、神さまが創造された人格に交わりをもって下さったのです。
神さまは、当時のイスラエルの民や弟子たちに、直接お交わりをもたれたのです。今で言うとリアルに交流され、御国のこと、神さまのご計画を告げられたのです。
天地万物を創造し、永遠におられ、全ての知識・知恵を持ち、どんなことでもおできになる無限の神さまが、人間の姿をとられたのです。
4、従順な応答
最後に、ヨセフが御使いの命令に従っている姿を見ることが出来ます。
マタイによる福音書1章24-25節を読みます。
1:24 ヨセフは眠りからさめた後に、主の使が命じたとおりに、マリヤを妻に迎えた。
1:25 しかし、子が生れるまでは、彼女を知ることはなかった。そして、その子をイエスと名づけた。
ヨセフは、御使いが告げた神さまのご命令を確かに守りました。
ヨセフの神さまに対する従順があってこそ、イエス様が神から来られたお方として、この世に現れることが可能になったのです。
私たちも同じです。私たちが神さまへ従順になれば、主イエス・キリストがどのような方であるのかを人々に示すことが出来ます。
もし、私たちが自分たちの知能や知識に頼って、神さまに命じられたことを怠るなら、人々は私たちのことを思い出しますが、イエス・キリストの事は何もわからなくなるでしょう。
私たちが神さまを信じるということ、神さまに用いられると言う事は、その実、重大な責務があるのです。
こうして、ヨセフが神さまのご命令に従順に従ったからこそ、キリストは神さまから来られた方として、また、人となられた神として世に証しすることが出来たのです。
これまで、3回にわたってイエス・キリストのルーツを見てきました。イエス様の系図に書かれている人物が、どのような信仰をもって暮らしていたかがお分かりになられたと思います。
また、イエス様が、どのような御方であるかが、少し理解が深まったのではないかと思います。
そして、イエス・キリストが自分自身の人生や命、魂の拠り所、つまり全人生の導き手であり、全幅の信頼ができる対象であることが見えてきたのではないでしょうか。
それは、神さまの祝福の全てを受けることであり、神さまのご支配に委ねることであり、神さまの憐れみを受けることであり、また、自分を罪から救ってくださる唯一の望みだということです。
私たちが、キリストを信じる信頼・信仰によって一歩一歩進むことによって、この祝福とあわれみ、救いを体験します。
そして、祝福とあわれみ、救いを体験し、次に重要なのは、ヨセフのような従順さです。
私たちが神さまの備えあるお導きに、従順に従い歩むと、私たちは、知らないうちに社会に対してキリストを証ししているのです。
それは、牧師や長い信仰生活をおくっておられる先輩方から教えられるものではありません。ご自身が神さまのお導きによって歩む姿です。
2024年12月15日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:戀田寛正
ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ「見よ、我は主のはした女なり (受胎告知)」 (1849-1850)
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※当教会は、信仰の有無や長さに関係なく、
気楽に集いたい方、気楽に聖書を学びたい方に向いています。
※聖書解釈はオーソドックスなプロテスタントですが、
教理・教条主義ではありません。
※牧師・伝道師の属人的な教会ではありません。
上下関係は無く、フレンドリーで話しやすい教会です。
※オンラインですので顔出ししなくても大丈夫です。
ニックネームでの参加もOKです。