ショートメッセージ【アブラハム②】

創世記13、14章
1、エジプトに下った結果
 前回アブラムは、神さまの召命を受けてカナンの地に行きました。そして、いけにえをささげて、礼拝者として生きる姿を見ました。ところが、神さまの命令を待たずにエジプトに行ってしまいました。結果として、多くの財産を得ることになりましたが、妻サライとの夫婦の危機を迎えることになりました。そして、13章からはさらに困ったことが起こります。

 アブラムは、エジプトで多くの財産や奴隷を得ることができましたが、そうすると多くの人間が集まり、権力が特定の人に集中します。
 そのことによって権益を求めて争いが起こりました。これは、決してこの当時の時代だけの問題ではありません。近年、ニュースなどで「国益」というワードをよく聞くようになりました。それは、その国家・国民の利益を守るための権利を現わします。今日のように世界の人口が増える中で、食料やエネルギー問題などは、その国家・国民の利益と権利を確保していかなければ国民を守ることができません。

 アブラムと、おいのロトとの間も、使用人と家畜などの財産が増えたことによって、土地が狭くなり、各々の使用人同士が争いを生じることになってしまいました。
 前回、アブラムが、財産を得たことによって、この争いが生じているということを見ました。
 財産そのものを得たことが問題ではありません。もし、エジプトに下ってなければ、多くの財産を得ることはできなかったかもしれません。しかし、神さまによる備えもあったのではないでしょうか。 
 新約聖書テモテへの第1の手紙6章9-10節を見てみましょう。
6:9 富むことを願い求める者は、誘惑と、わなとに陥り、また、人を滅びと破壊とに沈ませる、無分別な恐ろしいさまざまの情欲に陷るのである。
6:10 金銭を愛することは、すべての悪の根である。ある人々は欲ばって金銭を求めたため、信仰から迷い出て、多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおした。
 

 繰り返しになりますが、財産をもっていることが問題ではありません。
 神の召命を受けてカナンに行ったアブラムでしたが、やはり第一に財産を求めてエジプトに行ったことが問題だったのではないでしょうか。結果として甥とも離れることになるわけですし、ロト自身もアブラムに習って利益を求めるものとして生きることになるのです。信仰者はまず、創造主なる神さまに自分の歩む人生の選択(神の国と神の義)を尋ね聞くべきだと教えられているように思います。

2、ロトの判断と結果
 アブラムの判断は、使用人同士の利権争いにならないように、ロトと離れるというものでした。
 その時のロトの判断は、先ほど言いましたように自分の利益を第一に求めたことが創世記13:11に書かれています。《そこでロトはヨルダンの低地をことごとく選びとって東に移った。こうして彼らは互に別れた。》と。
 ロトの人生をご存じの方も多いと思いますが、いつも利益を求めていった結果として、転落していきます。そこには、創造主なる神さまに自分の歩む人生の選択(神の国と神の義)を尋ね聞く態度と姿勢はありませんでした。

 ロトは、この後、戦争に巻き込まれたり、娘の不貞によって子孫もイスラエルに反抗するような民族となっていきました。
 ロト自身の評価は「義人」ですが、信仰の継承はロトで終わったことを考えるとき、私たちはアブラムのエジプトに下る判断が、ロトの人生にも影響を与えたことを考えるべきでしょう。
 アブラムは族長ですから彼の判断は、家族や奴隷たちの人生も負っているのです。ですから、甥のロトの人生にも影響を与えました。すべてがアブラムのせいとまでは言いませんが、「長」という自覚を持つべき人は、まず、神さまのお言葉求めるべきであることを教えられます。また、自分の知恵や考えが、影響を与えることをよく自覚したほうが良さそうです。
 そう理解するとき、この記事から優先するべきもの学ぶことができます。

3、アブラムの判断と結果
 アブラムは、創世記13:12に《カナンの地に住んだ》と書いてあります。この判断はロトと違いました。ロトは、自分の利益を求めて、結果として利益を失う気の毒なことになります。しかし、アブラムの選んだ地は、すでにカナン人が住んでいますから、定住できないところで牧畜業を営んで、寄留者としてカナンの地で暮らしていくことになります。また、アブラムは、ロトの危機を聞いた時、300人余りの従者を引き連れて、助けに行くような記事も14章には書かれています。そのように隣人を愛して、さらに神さまに従う姿勢を伴ったアブラムは、結果として祝福されていきます。 

 エジプトで一攫千金のようなことがなくても、神さまはアブラムをカナンの地で養い、そして大いに祝福しようとしていたことがわかるのではないでしょうか。
 それがわかる記事としては創世記14章17-20節を見てみましょう。
14:17 アブラムがケダラオメルとその連合の王たちを撃ち破って帰った時、ソドムの王はシャベの谷、すなわち王の谷に出て彼を迎えた。
14:18 その時、サレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒とを持ってきた。彼はいと高き神の祭司である。
14:19 彼はアブラムを祝福して言った、/「願わくは天地の主なるいと高き神が、/アブラムを祝福されるように。
14:20 願わくはあなたの敵をあなたの手に渡された/いと高き神があがめられるように」。アブラムは彼にすべての物の十分の一を贈った。

 サレムの王、すなわち平安の王という意味のメルキゼデクが登場します。
 そのメルキゼデクは、王であり祭司でもありました。そのメルキゼデクが、アブラムの前に、突然現れました。
 この当時のアブラムは、エジプトで一攫千金を手に入れたときのアブラムではなく、隣人を愛し、さらに神さまの言われたとおりカナンの地で寄留者として生きることで大いに祝福を受けていました。

 アブラムは、その王であり祭司であるメルキゼデクに、すなわち、神さまに対して、財産の十分の一をささげました。現在にも通じる感謝のささげものです。
 神さまへの感謝は、アブラムが神さまへの信仰を間違いや失敗をおかしながら、何度も、神さまを求めて生きた結果なのです。
 私たちも同じだと思います。信仰とは毎日の生活の結果であるといえます。

 普通に考えれば、ロトのように、定住できる場所で、家を建てて、生計をたてるのが本来の人間の姿だと思います。しかし、アブラムはエジプトでの失態に気づき、そのことを通して、約束の地であるカナンの地で寄留者として生活をし、ロトの危機には隣人を愛する者のためにいのちを惜しまず助けに行く行動をもつことで、神さまから大いに祝福を受けることになったのです。

 私たちは何を求めるべきなのでしょうか。まず、神さまの御言葉に従うことが教えられます。そして隣人を愛し、歩むことを教えられます。
 また、アブラムを通して一番学ぶべき点は間違いを犯しても、その事に気づき、改めるのに「はやい」ことではないでしょうか。
 アブラムが、決して特別な人ではないことがわかるのではないでしょうか。お気づきだと思いますが、聖書は、私たちにも適用するべき物語であることがわかるはずです。

2022年2月20日(日)
メッセンジャー:香川盛治師