ショートメッセージ【ダビデ③】
サムエル記上21章~31章
(落ちていく者)
1、人を殺す者と生かす者(21-24章)
2、反省する者と反省しない者(25-26章)
3、成長する者と落ちていく者(27-31章)
1、人を殺す者と生かす者(21-24章)
サムエル上18章7節を読みます。
18:7 女たちは踊りながら互に歌いかわした、/「サウルは千を撃ち殺し、/ダビデは万を撃ち殺した」。
ダビデはゴリアテを倒して後も多くの功績をあげました。そのような中、サウル王はダビデが功績をあげればあげるほど、やっかみました。
サウル王は神さまの前に取り返しのつかない罪と失敗を繰り返してきました。そのたびに真の悔い改めはなく、口だけの表面的な取り繕いをしてきました。それに対してダビデは神さまへの信頼が大きく、イスラエルに民からは大きな期待を得るだけの資質をもっていたのです。サウル王の立場として考えれば嫉妬に狂っていくことは納得できます。
サウルはとうとうダビデを殺そうとします。そのような中、ダビデはサウル王が亡くなるまで逃走する生活を迎えることになります。
まずダビデはノブというところに逃れていきました。そこで祭司から神さまに備えた後のパンや敵であったゴリアテの装備していた剣をもらって逃れて行きました。時には気が狂ったようなふりをしながらでも逃れて行きました。
そのような中、サウル王はダビデをかくまったノブの町の人や生き物たちをすべて殺します。
22章18-19節です。
22:18 そこで王はドエグに言った、「あなたが身をひるがえして、祭司たちを殺しなさい」。エドムびとドエグは身をひるがえして祭司たちを撃ち、その日亜麻布のエポデを身につけている者八十五人を殺した。
22:19 彼はまた、つるぎをもって祭司の町ノブを撃ち、つるぎをもって男、女、幼な子、乳飲み子、牛、ろば、羊を殺した。
一方、ダビデにもサウル王を殺すチャンスがありました。サウル王がダビデを殺しに来た時にほら穴で宿営をしていました。その場所がわかり、ダビデはそこに侵入することに成功します。その時に言ったダビデのことばです。
24章8-15節です。
24:8 ダビデもまた、そのあとから立ち、ほら穴を出て、サウルのうしろから呼ばわって、「わが君、王よ」と言った。サウルがうしろをふり向いた時、ダビデは地にひれ伏して拝した。
24:9 そしてダビデはサウルに言った、「どうして、あなたは『ダビデがあなたを害しようとしている』という人々の言葉を聞かれるのですか。
24:10 あなたは、この日、自分の目で、主があなたをきょう、ほら穴の中でわたしの手に渡されたのをごらんになりました。人々はわたしにあなたを殺すことを勧めたのですが、わたしは殺しませんでした。『わが君は主が油を注がれた方であるから、これに敵して手をのべることはしない』とわたしは言いました。
24:11 わが父よ、ごらんなさい。あなたの上着のすそは、わたしの手にあります。わたしがあなたの上着のすそを切り、しかも、あなたを殺さなかったことによって、あなたは、わたしの手に悪も、とがもないことを見て知られるでしょう。あなたはわたしの命を取ろうと、ねらっておられますが、わたしはあなたに対して罪をおかしたことはないのです。
24:12 どうぞ主がわたしとあなたの間をさばかれますように。また主がわたしのために、あなたに報いられますように。しかし、わたしはあなたに手をくだすことをしないでしょう。
24:13 昔から、ことわざに言っているように、『悪は悪人から出る』。しかし、わたしはあなたに手をくだすことをしないでしょう。
24:14 イスラエルの王は、だれを追って出てこられたのですか。あなたは、だれを追っておられるのですか。死んだ犬を追っておられるのです。一匹の蚤を追っておられるのです。
24:15 どうぞ主がさばきびととなって、わたしとあなたの間をさばき、かつ見て、わたしの訴えを聞き、わたしをあなたの手から救い出してくださるように」。
ダビデとサウル王の違いはどこからくるのでしょうか、それは神さまとそのことばを信頼しているかそうでないかの違いです。サウル王は自分の保身や権力欲が優先し、ダビデはたとえ命を狙うものでも、神さまが立てた王(人)を歯向かう(除く)ことの畏れがあります。
2、反省する者と反省しない者(25-26章)
ダビデは逃れた地域で徒党を組み、敵国からその地域を守っていました。その事を理由にその地域の有力者であるナバルに貢物を求めます。ナバルはそれを拒否します。それによってダビデはこのナバルを倒そうとします。しかし、これは単なる略奪行為です。自らが守っているからという正当性を一方的に押し付けて相手に物を要求するのですから。
それに対して有力者ナバルの妻アビガイルはダビデに贈り物をもってきます。その時のアビガイルとダビデの会話の一部です。
25章31-33節です。
25:31 あなたが、ゆえなく血を流し、またわが君がみずからあだを報いたと言うことで、それがあなたのつまずきとなり、またわが君の心の責めとなることのないようにしてください。主がわが君を良くせられる時、このはしためを思いだしてください」。
25:32 ダビデはアビガイルに言った、「きょう、あなたをつかわして、わたしを迎えさせられたイスラエルの神、主はほむべきかな。
25:33 あなたの知恵はほむべきかな。またあなたはほむべきかな。あなたは、きょう、わたしがきて血を流し、手ずからあだを報いることをとどめられたのです。
ダビデはその意見を聞き、反省をしてナバルを殺すことを思いとどめます。
後にダビデはアビガイルを自分の妻の一人とします。ダビデは自分の行いを改めるのに早いというエピソードの一つです。
その反面、サウル王はどうでしょうか。実は、またダビデを殺そうとします。そして、またサウル王が寝ているところにダビデはやってきます。その時にまた口だけの反省したような美辞麗句を並べるのです。
3、成長する者と落ちていく者(27-31章)
この後、サウル王はまじないや口寄せをして神さまから離れていきます。そうなればなるほど、人を退け最後には31章に書かれているように自らと親族のいのちを捨てることとなります。自らの保身と権力用を育てた結果がこれです。
一方、ダビデはサウル王が命を狙ってくる理不尽な苦労の中で神さまを信頼し、畏れながら成長していきます。
置かれた場所や待遇は決して自分が望んだものではありませんでした。しかし、その中で神さまの導きを信じて歩んでいく中で次の王にふさわしい資質を成長させていったのです。人の成長には、神への信頼と畏れ、そして反省に早いことの大切さが教えられるのです。これは時代や立場を問わず私たちに教えられる真実なのです。
2023年2月19日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:香川盛治
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教会は、人がこの世に生まれた時から天に召される時まで、すべての時が神の導きと祝福の内にあることを実感するところです。そして、聖書は人生の処方箋とも言えます。人生に行き詰まりを感じることや、疲れをおぼえる時は、先ず休むことです。明日のことは、明日にならないとわかりません。明日に備えてグッスリ眠るほうが健康的です。
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