ショートメッセージ【エリヤ②】

列王紀上18章1-29節
(アハブとの対決)

1、アハブ王の宮廷長と会うエリヤ(18章1-10節)
2、アハブ王と会いバアルの預言者と対決するエリヤ(18章16-24節)
3、虚しい対決 25-29節

1、アハブ王の宮廷長と会うエリヤ
 はじめに18章1-5節を読みます。

18:1 多くの日を経て、三年目に主の言葉がエリヤに臨んだ、「行って、あなたの身をアハブに示しなさい。わたしは雨を地に降らせる」。
18:2 エリヤはその身をアハブに示そうとして行った。その時、サマリヤにききんが激しかった。
18:3 アハブは家づかさオバデヤを召した。(オバデヤは深く主を恐れる人で、
18:4 イゼベルが主の預言者を断ち滅ぼした時、オバデヤは百人の預言者を救い出して五十人ずつほら穴に隠し、パンと水をもって彼らを養った)。
18:5 アハブはオバデヤに言った、「国中のすべての水の源と、すべての川に行ってみるがよい。馬と騾馬を生かしておくための草があるかもしれない。そうすれば、われわれは家畜をいくぶんでも失わずにすむであろう」。

 サマリヤの飢饉は激しかったようですが、5節を読むと家畜を殺さないですむ程度だったことがわかります。アハブは王として水を探しに出かけ、また、エリヤ探しも兼ねていました。

 オバデヤが救出した百人の預言者集団ですが、サムエル記上10章5節を見ますと、すでにサムエル時代から各地に集団が存在していたようです。

10:5 その後、あなたは神のギベアへ行く。そこはペリシテびとの守備兵のいる所である。あなたはその所へ行って、町にはいる時、立琴、手鼓、笛、琴を執る人々を先に行かせて、預言しながら高き所から降りてくる一群の預言者に会うでしょう。

 歴代の背信の王が、主である神さまの預言者を迫害した記述はありませんから、イゼベルの迫害は、前代未聞の組織的根絶と言えます。
 次に18章7-10節を読みます。

18:7 オバデヤが道を進んでいた時、エリヤが彼に会った。彼はエリヤを認めて伏して言った、「わが主エリヤよ、あなたはここにおられるのですか」。
18:8 エリヤは彼に言った、「そうです。行って、あなたの主人に、エリヤはここにいると告げなさい」。
18:9 彼は言った、「わたしにどんな罪があって、あなたはしもべをアハブの手にわたして殺そうとされるのですか。
18:10 あなたの神、主は生きておられます。わたしの主人があなたを尋ねるために、人をつかわさない民はなく、国もありません。そしてエリヤはいないと言う時は、その国、その民に、あなたが見つからないという誓いをさせるのです。

 7節と10節を見ますと、このオバデヤは、エリヤには《わが主エリヤ》と言い。アハブには《わたしの主人》と言っています。エリヤについては、主に仕える者としての師の意味です。

 オバデヤがエリヤとの出会いを恐れたのは、アハブが飢饉の原因はエリヤだと考えているからです。命がけで預言者たちを救い出したにもかかわらず、自分の命の危険にさらされるとは理不尽だと言っています。
 アハブ王の妻について少し解説しますとイゼベルはシドン人で王エテバアルの娘です。
 政治的同盟のためアハブと結婚しました。いわゆる政略結婚です。そして、北イスラエル王国のバアル礼拝の導入は妻イゼベルによるものです。そしてイゼベルはバアル崇拝を北イスラエルに広めようとし、バアル信仰による体制で国の強化を図ることによってアハブ王を支えようとしたのです。

 話は戻りますが、アハブ=イゼベル=罪、そして飢饉、預言者エリヤ、迫害、オバデヤの救出、身の危険の流れがあることに気づきます。この流れに解決を与えるべく、エリヤは主である神さまの命令によってアハブに会うのです。

2、エリヤ、アハブ王と会いバアルの預言者と対決

18:16 オバデヤは行ってアハブに会い、彼に告げたので、アハブはエリヤに会おうとして行った。
18:17 アハブはエリヤを見たとき、彼に言った、「イスラエルを悩ます者よ、あなたはここにいるのですか」。

 17節のイスラエルを《悩ます者》は、ヨシュア記7章25節にある分捕り物を盗んだアカンについて《なぜあなたはわれわれを悩ましたのか。》(ヨシ7:25)という言葉と同じです。「厄介な奴め」のようなニュアンスです。

18:19 それで今、人をつかわしてイスラエルのすべての人およびバアルの預言者四百五十人、ならびにアシラの預言者四百人、イゼベルの食卓で食事する者たちをカルメル山に集めて、わたしの所にこさせなさい」。
18:20 そこでアハブはイスラエルのすべての人に人をつかわして、預言者たちをカルメル山に集めた。
18:21 そのときエリヤはすべての民に近づいて言った、「あなたがたはいつまで二つのものの間に迷っているのですか。主が神ならばそれに従いなさい。しかしバアルが神ならば、それに従いなさい」。民はひと言も彼に答えなかった。
18:22 エリヤは民に言った、「わたしはただひとり残った主の預言者です。しかしバアルの預言者は四百五十人あります。

 バアルとの対決にアハブが同意するのですが、どちらが本当の神かを知りたいのではなく、飢饉が早く終わればいいのにという思いからでしょう。おそらく、オバデヤがアハブを説得したのでしょう。

 この戦いに、なぜかバアル信仰に熱心なイゼベルがいません。おそらくイゼベルいないため、アハブは意気が上がらず傍観していたのでしょう。発言や行動の記事がありません。

 アハブのことを中心に観察しながら読みますと、おそらく彼は信仰心などなく宗教的なことに関心がなかったのでしょう。

 エリヤの目的は、アハブやバアルの預言者たちではなく、読み進めると北イスラエルの民の神さまに対する決断にあるのです(37)。21節で民は無言でした。すでにエリヤの迫力に関心を抱きながら、しかしアハブを恐れて何も言えない状態なのでしょう。

 バアル礼拝に服従してきた罪を少しずつ感じるようになってきているのでしょう。
 22節のエリヤ《ひとり》とバアルの預言者《四百五十人》との対比は明確に真の神さまと偶像の神々との違いに民に気づいてほしいとの思いから発した言葉でしょう。

 しかし内心、真の神はどちらか。と、不安を抱いていたと考えられます。それは、イゼベルによってイスラエルの神さまの預言者が多く殺害されたからです。
 18章23-24節を読みます。

18:23 われわれに二頭の牛をください。そして一頭の牛を彼らに選ばせ、それを切り裂いて、たきぎの上に載せ、それに火をつけずにおかせなさい。わたしも一頭の牛を整え、それをたきぎの上に載せて火をつけずにおきましょう。
18:24 こうしてあなたがたはあなたがたの神の名を呼びなさい。わたしは主の名を呼びましょう。そして火をもって答える神を神としましょう」。民は皆答えて「それがよかろう」と言った。

 すべての人が納得するには、目に見える形で明確に結果がわかることです。そこで、《火をもって答える神を神としましょう》という、最もわかりやすい方法となり、《民は皆答えて「それがよかろう」と言った。》のです。

3、虚しい対決 25-29節
 25-29節を読みます。

18:25 そこでエリヤはバアルの預言者たちに言った、「あなたがたは大ぜいだから初めに一頭の牛を選んで、それを整え、あなたがたの神の名を呼びなさい。ただし火をつけてはなりません」。
18:26 彼らは与えられた牛を取って整え、朝から昼までバアルの名を呼んで「バアルよ、答えてください」と言った。しかしなんの声もなく、また答える者もなかったので、彼らは自分たちの造った祭壇のまわりに踊った。
18:27 昼になってエリヤは彼らをあざけって言った、「彼は神だから、大声をあげて呼びなさい。彼は考えにふけっているのか、よそへ行ったのか、旅に出たのか、または眠っていて起されなければならないのか」。
18:28 そこで彼らは大声に呼ばわり、彼らのならわしに従って、刀とやりで身を傷つけ、血をその身に流すに至った。
18:29 こうして昼が過ぎても彼らはなお叫び続けて、夕の供え物をささげる時にまで及んだ。しかしなんの声もなく、答える者もなく、また顧みる者もなかった。

 16章26節で預言者たちによってバアルが《彼らの偶像》であると言葉で咎められていましたが、民には何がおかしいのかよくわからなかったのでしょう。《彼らの偶像》という実体がここに示されたことになります。《彼ら》は異教の民です。《偶像》は人が想像して形作ったモノです。
 そして、ドキドキして見守る民の前で朝から真昼まで叫び踊り回る姿は、なんと虚しいモノでしょうか。逆に強い印象を受けます。

 エリヤのあざけりによって刺激され、理性を失って血を流すまでの行為は狂っています。
 宗教的情熱をもっての行動であるなら,その情熱は狂っているとは思われません。かえって感動が生まれます。答えを求めましたが《しかしなんの声もなく、答える者もなく、また顧みる者もなかった。》

 古代から、実体のない虚しい偶像でも、そこに人々が集まり、自分の願い事を聞いてもらえるとして信じて拝むなら、その人々は、その真実を確認しないで、他人の拝む姿を見て信じ込んでしまいます。その様子は、現代に生きる私たち人間の病理であり罪と言えます。

2023年5月14日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:戀田寛正

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