素直に読む【ヨハネの黙示録_5】

黙示録2章8-11節
「スミルナにある教会の御使に」

〈はじめに〉
 前回、2章に入り、エペソの教会についてみました。今回は、2章8-11節で、スミルナの教会の御使いに送られた手紙の内容を見ていきましょう。

 「スミルナ」は、古代ギリシヤ名で、トルコ西部、エーゲ海に面する古代都市です。現在は「イズミル」という地名です。そのスミルナ(イズミル)は、エーゲ海に面する湾、海からのなだらかな斜面が続き、丘の平らな頂に建つ壮麗(規模が大きく美しい)な建物は、スミルナの冠もしくはアジアの冠と呼ばれていました。

 この町は、紀元前600年ごろ侵入者に完全に滅ぼされ、その後400年は、村として存続するのみでしたが、紀元前200年ごろに再建されました。手紙の書かれた当時は、商業都市として栄え、エペソに次ぐ規模の町であったようです。

 スミルナはローマが大国になる以前から、ローマに忠誠を尽くし従い続けました。その忠節は古代世界に知れ渡っていたとのこと。ローマもスミルナをもっとも古い同盟都市と呼んでいます。

 スミルナの教会の監督は、ポリカルポスというヨハネの弟子であったようです。
 このポリカルポスは、殉教の死をとげますが、「ポリカルポス殉教記」に史実(歴史上の事実)としてその記録が残されています。

 ポリカルポスが、捕らえられて競技場に引き出された時、ローマ地方総督は、キリストを非難せよと命じました。しかしポリカルポスはこのように答えます。「86年の間、私は主に仕えてきました。しかも主は一度だって私の害になることをなさったことがありません。そうであれば、どうして、わたしの主であり救い主であるお方を冒涜することができましょうか。」
 総督が、彼にもう一度強要したときに彼は答えます。「あなたは私に対してカエサルの命によって誓えという無益な要求をなさり、私が誰であり、何者であるかをご存じないように振る舞っておられます。だからいまはっきり申し上げます。私は、キリスト教徒であります。…」

 しばらくの沈黙の後、総督は答えます。「猛獣の用意はできているのだ。お前が考え直さないなら、彼らの中に投げ入れることにする。猛獣など、何とも思っていないようだが、考えを改めない限り、火をもって焼き殺すぞ。」

 しかし、ポリカルポスは言いました。「あなたはほんの一時、燃えてすぐに尽きてしまう火で私を脅迫されます。ところが不信仰な者たちに必ず臨む、来たるべき裁きと永遠の刑罰との火のことをご存知ありません。なぜぐずぐずしておられるのですか。お考えの通りになさってください。」
まもなく人々は薪を集め始めました。特にユダヤ人たちが、熱心に手伝ったようです。こうしてポリカルポスは、火あぶりの刑に処せられたということです。

 このことから、ユダヤ人がローマの威を借りて、キリスト教会を迫害していたこと、また、当時、スミルナの教会がローマからどのように迫害を受けていたのかがよくわかります。
 一番古いローマの同盟国だからこそ、迫害が酷かったのかもしれません。

 手紙の内容を見ていきましょう。
 構成は、1-7節のエペソの教会と時と同じような構成です。

 ① あいさつまたは呼びかけ「スミルナにある教会の御使に…」
 ② キリストの呼び名「初めであり、終わりである者、…」
 ③ キリストによるお褒め「わたしは、あなたがたの苦難や、貧しさを知っている。」
 ④ キリストによる咎め⇒スミルナにはない
 ⑤ キリストによる警告「あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない。」
 ⑥ キリストのすすめ「耳のある者は、…聞くがよい。」
 ⑦ キリストのみ約束「勝利を得る者は、第二の死によって滅ぼされることはない」

 このように、スミルナにおいては、イエス様からのお咎め、責められるべきことはないのです。

〈本文〉
 ヨハネの黙示録2章8節を読みます。

2:8 スミルナにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『初めであり、終りである者、死んだことはあるが生き返った者が、次のように言われる。

 《『初めであり、終りである者、》この呼び名は、すでに1章で見てきました。はなはだ良い者として置いてくださったイエス様は、最終的に同じ、はなはだ良い者として生かしてくださる。
 最後まで、そのように面倒をみて、私たちを活かしてくださるイエス様であること。そして一度死んで捕らわれたその死から、死の扉をこじ開けて出てこられ、死に勝利され、私たちも同じように死の勝利者としてくださるイエス様という始まり方です。

 町としては、400年にわたり、死んでいたましが、再び町としてよみがえったスミルナの町自身の経験、歴史と同調しています。
 また、スミルナの教会の人たちが、いつも死に向き合っている。とても大変な状況。
 イエス様が、死と命について励ましを送らなければならない状況であったことが想像されます。
 2章9節前半を読みます。

2:9a わたしは、あなたの苦難や、貧しさを知っている(しかし実際は、あなたは富んでいるのだ)。

 ここでの苦難は、ポリカルポスの殉教に代表される迫害などと捉えてよいでしょう。
 このスミルナの教会に置いては、イエス様からのお咎めはありませんから、内部問題による苦難ではなく、外的要因による苦難であったことが分かります。ポリカルポスの時のようにイエス・キリストを拒否するユダヤ人たちが扇動していたと思われます。商業で栄えたスミルナでしたから、ユダヤ人も多くいたことでしょう。

 また、ここでのこの貧しさは、霊的なものではなくて、経済的な貧しさであったでしょう。社会におけるクリスチャンへの差別や、当時異教の暴徒が、クリスチャンの家を襲撃し、持ち物を破壊、略奪するということが頻繁にあったようです。

 そのような、社会における迫害、経済的貧困にあえいでいる彼らに、イエス様は、「しかし実際は、あなたは富んでいるのだ。」と言われる。

 このイエス様のお言葉は、8節のイエス様ご自身の呼び名に関連しているようです。
 あなたがたをはなはだ良い者として置いてた、わたしイエスは、どんなことがあろうとも最終的には、あなたがたをその同じ、はなはだ良い者として生かして置くのだ。最後まで面倒をみてあなたがたを置き活かすのだ。
 最後は必ず、あなたがたを天の宝で満たそう。富んだものとしよう。迫害と貧困の中にあっても信仰に歩むあなたがたのその歩みに必ず報いが与えられるのだと言ってくださっています。
 そして一度死んでとらわれたその死から死の扉をこじ開けて出てきたわたしは、あなたがたも同じように死への勝利者とし、豊かさに生きる道を示そう。だからあなたがたは、天での富をすでに手におさめている、そのように言われています。
 2章9節後半を読みます。

2:9b また、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくてサタンの会堂に属する者たちにそしられていることも、わたしは知っている。

 イエス・キリストを受け入れることのできなかったユダヤ人が、他の異教徒たちのようにスミルナの教会の兄弟姉妹をそしっていました(悪く言っていた/非難していた)。
 しかし、たとえ血筋がユダヤ人であっても、イエス・キリストのいのちを拒否している彼らは、神さまに選ばれた民ではなく、サタンに属する者でした。

 彼ら自身は、自らを神さまの会堂に属する者と呼んでいたようですが、キリスト者をローマに売る彼らは、神さまの会堂ではなく、サタンの会堂に属する者だとイエス様は言われています。
 2章10節を読みます。

2:10 あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない。見よ、悪魔が、あなたがたのうちのある者をためすために、獄に入れようとしている。あなたがたは十日の間、苦難にあうであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう。

 十日間の間の苦難、投獄というのは、文字通りの10日間ではなくて、当時の習慣で、やがて終わる短い期間を指していると考えられます。

 しかし、その短さというのは、開放されるからということではなくて、実際は、投獄された者たちの面倒を国はみなかったので、引き出され殺されることが多かったとされます。
 スミルナの教会の兄弟姉妹たちにとって、投獄は、死が隣り合わせであるということでしょう。
  そんな彼らだったからこそ、イエス様は、間髪入れずに、《死に至るまで忠実であれ。》そうすれば、そのあとには、いのちの冠が待っていますよと言われているのです。
 ここで、ヤコブの手紙1章12節を読みます。

1:12 試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。

 ヤコブのおことばを合わせて見ると、このいのちの冠を受ける者は、
 ・死に至るまで忠実な者
 ・試練を耐え忍ぶ者
 ・神さまを愛する者
 ということになります。そして、もうスミルナの教会のあなたがたには、その権利があって、その冠に手が届くのですよとイエス様が、励ましを与えておられるということです。

 この《冠》という言葉は、原典ではステファノスという言葉です。
 何か思い当たりませんか。
 そうステパノの名前の由来は、このステファノスなのです。聞いていた者たちの多くの人々は、使徒行伝(6-7章)に登場するステパノを思い出したのではないでしょうか。
 まさに死に至るまで忠実であった、あの殉教者ステパノです。

 スミルナの教会のあなたがたには、いのちの冠をいただく権利があって、もう、その冠に手が届く、あなたがたもステパノのように立派な私の弟子なのです。というイエス様の励ましが、耳に届いていたことでしょう。
 ヨハネの黙示録2章11節を読みます。

2:11 耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者は、第二の死によって滅ぼされることはない』。

 彼らへの約束は、あなたがたは、第二の死には行かない。この肉体の死を恐れる必要はないということでした。

 はじめにご紹介した、ポリカルポスは、紀元155年に、殉教の死をとげます。それ以降、この手紙の朗読を聞いた者たちは、ここで、ポリカルポスが言ったことば、「だから今、はっきり申し上げます。私はキリスト教徒であります。…」
 「あなたはほんの一時、燃えてすぐに尽きてしまう火で私を脅迫されます。ところが不信仰な者たちに必ず臨む、来たるべき裁きと、永遠の刑罰との火のこと(これが第二の死)をご存知ありません。」

 肉体の死ではなく、来たるべき裁きと、永遠の刑罰との火のこと(=第二の死)を恐れるのがキリスト教徒なのだというポリカルポスの言葉、この言葉をも思い出して励ましをいただいたことでしょう。

 スミルナの教会には、お咎め、責められるべきことはありませんでした。しかし、全く問題がなかったとは思えません。おそらくスミルナの教会は、それを正すような、そんな余裕はなかった。もう死に直面していた。
 悪い点をあらためて、良いものを継承していくといったことを言っていられる場合ではなかったのでしょう。

〈今回の学び〉
イエス様が、スミルナの教会を励ましておられる背景にあるのが、彼らの苦難と極度の貧しさでした。死という先の見えない不安から恐れが出てきます。また、経済的に保証されない貧しい状態や、つらい状況の行く末が見えない不安からも恐れが出てきます。
神さまに信頼して生きているのに、どうしてここまで厳しい状況に追い込まれるのか、受け入れ難い状況は、人々の心を恐れで支配し、主への信頼、信仰を消そうとします。これが、サタンの狙いでもあります。

 そこで、イエス様は、あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならないと言われました。

  • 恐れてはならないという言葉の裏側にあるイエス様の思いは、私が与えた平安を疑ってはならないということでした(ヨハネ 14:27)。
  • どうして神さまは、助けて下さらないのかと不満を漏らすならば、神さまは、《万事を益となるようにして下さる》(ローマ 8:28)という神さまの深いお心から外れます。
  • また、神さまは私を助け出す力がないのかと思うならば、《あなたを見放すことも、見捨てることもしない。》(ヨシュア1:5)と言われた神さまの御言葉は、力なしのいかさまに過ぎないと言って、神さまを嘘つき呼ばわりしていることになります。
  • 更に、どうしてもっと経済的に安定した中に置いて下さらないのかと言うならば、神さまは全ての必要を満たして下さっている(マタイ 6:32,33)という、あのお言葉は、誇大妄想の人物が語ったほら話に過ぎないと言っていることになります。
  • 恐れは、力ある神さまの言葉をかき消してしまいます。信仰を弱らせてしまいます。
    神さまの力ある約束の御言葉を信じるということは、私たちの感覚では理解できないことであっても、そこには神の導きと助けとがあり、私たちの思いに沿ってではなく、神さまの深いお心によって考えられた通りに、もっともよい導きと助けとを与えて下さっているとの信仰に立つことです。

 神さまの力ある約束の御言葉を信じるということは、そこには神さまの導きと助けとがあり、私たちの思いに沿ってではなく、神さまの深いお心によって考えられた通りに、もっともよい導きと助けとを与えて下さっているとの信仰に立つことです。

 スミルナの教会には、死が迫る中で信仰に立つという厳しさが求められています。だからこそ、イエス様はじのキリストの呼び名で、《『初めであり、終りである者、死んだことはあるが生き返った者》と紹介されています。

 いのちは、私の手にある。あなたがたの最後は、創造のはじめに置かれた、はなはだ良いものとしてこのイエスが責任をもって、最後もはなはだ良い者として置くのだから、そこを見なさい。結果はそこにありますよ。
 今、目の前にあることは、途中経過に過ぎない、だから恐れて、サタンの手に落ちて信仰を弱らせたり、失くしたりしてはいけない。
 もうそこにいのちの冠が、多くの富がまっているのだから、最後まで忠実なしもべとして仕えなさい。と、イエス様が、励ましを与えておられます。

 今日、私たちには、このような迫害はありません。しかし、日本の教会が第二次世界大戦で経験したような、命がけの信仰が試される時が決して来ないとは限りません。
 また、自分の肉体の死と向き合わなければならない時に、必ず、この今回のイエス様の御言葉を確かな信仰でとらえることができるか。私たち1人1人の信仰が試される時がやってきます。
マタイによる福音書10章39節

10:39 自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。

 この御言葉に立つか、自分のいのちを見て、サタンに誘惑の機会を与え、信仰を弱らせてしまうかという選択でしょう。
 この地上に置かれている境遇、与えられている使命、立つべき位置、それらすべてが、神さまのご計画なのだと目の前の現状を受け入れ、そして耐え、死を恐れずに忠実に従ったものへの報いは大きいのだというやがて来る天での結果を仰ぎみて、「私は、キリスト教徒であります」と言える1人にどうかしてくださいと願い、祈らずにいられないことを教えらえます。

2023年10月27日
尚徳牧師の素直に読む【ヨハネの黙示録_5】
タイトル:「スミルナにある教会の御使に」
牧師:香川尚徳