素直に読む【ヨハネの黙示録_9】

黙示録3章7-13節
「ヒラデルヒヤにある教会の御使に」

〈はじめに〉
 今回は3章7-13節で、ヒラデルヒヤの教会の御使いに送られた手紙の内容を見ていきましょう。

≪ヒラデルヒヤ≫
 7つの都市の中で最も歴史の浅く、紀元前2世紀にペルガモからの移民によってつくられたまちでした。

 ヒラデルヒヤというのは、ギリシャ語で“兄弟愛”を意味していました。その当時、ペルガモを統治していたアタロス2世がその兄弟を深く愛していたことにちなんで、付けられたとのことです。
 肥沃な土地で、ぶどうの一大生産地となり、ぶどう酒の産地として有名でした。また地震が多くその被害が大きかったようです。

 この町は、ギリシャ文化とギリシャ語を普及させる目的でつくられました。そのために開かれた門戸は、イエス・キリストの福音を人々に伝える門戸の解放にもつながりました。
 すべての都市の中でこのヒラデルヒヤが最大の賛辞を受けています。

 のちにトルコのマホメット教徒が、小アジアに侵入し、すべての都市を降伏させましたが、ヒラデルヒヤだけは独立を維持し、キリスト教徒の都市として14世紀にまで続いたそうです。

 ヒラデルヒヤには、今日でも多くのクリスチャンがいるとのことです。
 また、ヒラデルヒヤにある聖ヨハネ教会の遺跡では、建物は壊れてしまっているのですが、現在もその柱は残されています。12節の御言葉と関係しているのでしょうか。

 ちなみに、アメリカペンシルベニア州にある最大の都市、フィラデルフィアの由来は、このヒラデルヒヤです。

 アメリカのフィラデルフィアは、ニューヨーク市とワシントン D.C. の中間に位置し、東海岸第二、全米第六の人口を持つ北アメリカ有数の世界都市。1682年 人類史上初の信仰の自由が保障された街として築かれました。
 1776年この地で独立宣言が採決され、アメリカ誕生の地となりました。

〈本文〉
 では本文を見てまいりましょう。
 ヒラデルヒヤの教会に対しては、イエス様から責めるべき点はありません。
 ヨハネの黙示録3章7節を読みます。

3:7 ヒラデルヒヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『聖なる者、まことなる者、ダビデのかぎを持つ者、開けばだれにも閉じられることがなく、閉じればだれにも開かれることのない者が、次のように言われる。

 イエス様は《ヒラデルヒヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『聖なる者、まことなる者、ダビデのかぎを持つ者、》と言われています。《ダビデのかぎを持つ者》は、イザヤ書22章22節からの言葉でしょう。
 イザヤ書22章15-25節を読みます。

22:15 万軍の神、主はこう言われる、「さあ、王の家をつかさどるこの執事セブナに行って言いなさい、
22:16 『あなたはここになんの係わりがありますか。あなたはだれの縁故でここに自分のために墓を掘ったのですか。あなたは高い所に墓を掘り、岩をうがって自分のためにすみかを造った。
22:17 強い人よ、見よ、主はあなたを激しくなげ倒される。主はあなたを堅くつかまえ、
22:18 ぐるぐるまわして、まりのように広々した地に投げられる。主人の家の恥となる者よ、あなたはそこで死に、あなたの華麗な車はそこに残る。
22:19 わたしは、あなたをその職から追い、その地位から引きおろす。
22:20 その日、わたしは、わがしもべヒルキヤの子エリアキムを呼んで、
22:21 あなたの衣を着せ、あなたの帯をしめさせ、あなたの権力を彼の手にゆだねる。彼はエルサレムの民とユダの家との父となる。
22:22 わたしはまたダビデの家のかぎを彼の肩に置く。彼が開けば閉じる者なく、彼が閉じれば開く者はない。
22:23 わたしは彼を堅い所に打ったくぎのようにする。そして彼はその父の家の誉の座となり、
22:24 その父の家のすべての重さは彼の上にかかる。すなわちその子、その孫およびすべての小さい器、鉢からすべてのびんにいたるまでみな、彼の上にかかる』」。
22:25 万軍の主は言われる、「その日、堅い所に打ったくぎは抜け、切られて落ちる。その上にかかっている荷もまた取り去られる」と主は語られた。

 イザヤ書22章15節から、この部分の御言葉が始まっています。
 王の家を支配する執事セブナが役に立たないので、代わりに、べヒルキヤの子エリアキム(大臣の1人であったようです)が任務を与えられます。22節に書かれている通り、ダビデの家の鍵が彼の肩に置かれます。彼が開けば閉じる者なく、彼が閉じれば開く者はない。ということは、この鍵を持つ者の権威、それ以上に、この鍵自体の圧倒的な権威が示されています。

 しかし、残念なことにイザヤ書22章25節では、このエリアキムも役に立たない時が来る、いや来てしまった。国を支配すべきものが、神さまの御心にかなう神の国の支配ができずに次々と脱落していく。
 預言者イザヤは、それをみながら、神の国の支配が確立され、継続される道を絶えず問い続けていたということでしょう。

 この手紙を記したヨハネは、おそらく、このイザヤの心にあった悲しみと痛みをも思いながら、《聖なる者、まことなる者、ダビデのかぎを持つ者》と記したのではないかと思います。そして、この方、イエス・キリストは間違いない。この方に委ねられた鍵は、間違いなく鍵として働く、働き続けるということを確信していたでしょう。

 それゆえ、ここで、単にキリストが“聖”で、真実なお方であるとだけ言っているのではないようです。この聖なる方、真実な方が、この地上に来られたお方、今、私たちがいる歴史に生きられた方、歴史に存在された方、そして、この歴史に教会を造られたお方、そして私たちの歴史の中で今も働かれる、聖く、また、真実なお方だということを言っているのでしょう。
 それが、ヨハネの黙示録3章8節にも続いています。

3:8 わたしは、あなたのわざを知っている。見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたには少ししか力がなかったにもかかわらず、わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかったからである。

 イエス・キリストが《かぎ》を開けて、神の国の門を開いてくださっていた。だからこそ、伝道ができた、教会ができた、あなたがたがわざを成すことができたと言われているようです。

 3章8節後半部分の《なぜなら、あなたには少ししか力がなかったにもかかわらず、わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかったからである。》は、原文の意味は、《少ししか力がなかったにもかかわらず》という否定的な表現ではなくて、肯定的な言い回しで書かれているようです。新改訳2017では、《あなたには少しばかりの力があって、》と訳されていて、こちらの訳の方が原文に近いと思います。

 彼らは、イエス様のしもべとして持てる力を精一杯使い、忠実に仕えた。
 そのような彼らのわざをイエス様は見られていた。そして、イエス様が、大いに働いて、神の国の門を開いておいてくださっていたので、今の教会があり祝福がありますよ。とそう言われています。

 どんな働き人でも、また教会でも、イエス様と比べればその力は小さなものです。それに高ぶることなく、またそれを卑下することなく、持てる力、与えられた賜物、その機会をただ忠実に、精一杯果たすときに、果たそうとするときに、イエス様が、助けて下さり、大きな力として用いてくださるということでしょう。
 3章9節を読みます。

3:9 見よ、サタンの会堂に属する者、すなわち、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくて、偽る者たちに、こうしよう。見よ、彼らがあなたの足もとにきて平伏するようにし、そして、わたしがあなたを愛していることを、彼らに知らせよう。

 ここも少し読み方に注意がいるでしょうか。
 サタンの会堂に属する者はすでに2つ目のスミルナの教会のところで見ました。
 イエス・キリストを受け入れることのできなかった、ユダヤ人たちのことです。キリストの教会を悪く言い、避難し、迫害したのです。
 しかし、イエス様は、そんなユダヤ人たちに、あなたがたの代わりに報復する、あなたがたの前に跪かせて詫びさせるといっているのではありません。

 愛によって彼らに勝利すると言われています。
 迫害するユダヤ人たちが、自ら、自分たちは間違っていた。自分はユダヤ人であり、神の民であったのは、ただただ、神さまの恵み、愛のおかげでした。実は、私たちも小さく力ない者でした。その小さき者をも神さまは愛して、このイエス様をお送りくださったのだ。
 その愛が頑なな私たちの心に勝利させてくださったのだ。今イエス様、あなたのその愛にひれ伏します。というように心を変えられて導くと言われています。

 そしてそれは、ご聖霊をいただいて、神の愛の宮となっている教会の兄弟姉妹のその足元なんですよ。とイエス様は言われています。この時すでにヒラデルヒヤの教会の兄弟姉妹1人1人が、神さまの愛の柱となり、教会として愛の宮を形づくっていたということでしょう。
 ですからイエス様は、そこに、その足元に神の愛を悟ったユダヤ人たちを平伏させよう、いや、彼ら自らそのようにするでしょう。と言われています。
 3章10節を読みます。

3:10 忍耐についてのわたしの言葉をあなたが守ったから、わたしも、地上に住む者たちをためすために、全世界に臨もうとしている試錬の時に、あなたを防ぎ守ろう。

 《忍耐についてのわたしの言葉》についてはあとでまとめのところでみましょう。
復活の主が約束されているのは、キリストからキリストにあるものを引き離す者は何もないということです(ローマ人への手紙8章39節)。
 どのような時も、キリストに忠実な者は、キリストから安全に守られるということです。それは、あなただけでやるのではない、兄弟姉妹がともにいる。そしてわたしもあなたを守ります。と主は言われます。
 3章11節を読みます。

3:11 わたしは、すぐに来る。あなたの冠がだれにも奪われないように、自分の持っているものを堅く守っていなさい。

 《わたしは、すぐに来る。》→不用意な者への警告と、耐え忍ぶ者への励ましとなります。

 《あなたの冠がだれにも奪われないように、自分の持っているものを堅く守っていなさい。》→これは、誰かが冠を奪っていくということではなく、自ら失わないようにという警告です。今与えられている働きに忠実に仕えるものはやがてその冠をいただくのである。しかし、賜物を用いず、土に埋めておけばそれは他の人に与えられてしまう、冠を失うのである。だから、失わないように守りなさい。躊躇せずに、示されている働きに忠実に仕えなさい。という意味でしょう。
 3章12節を読みます。

3:12 勝利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう。

 ここでは忠実な者への復活の主からの約束がいろいろ書かれています。

 《神の聖所における柱》= 教会を支える大切な奉仕者としてくださるということ。それは、働きの大きさや種類ではなく、イエス様は忠実さを見ておられます。

 《彼は決して二度と外へ出ることはない。》= 神のみ心の内を歩む信仰生活が守られる。イエス様が必ず守ってくださるという約束。

 《そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう。》
 ⇒これはヨハネの黙示録21章1-4節の幻と合致するものです。この時のヨハネには、すでに黙示録21章の幻が与えられていたのでしょう。
 ヨハネの黙示録21章1-4節を読みます。

21:1 わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。
21:2 また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。
21:3 また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、
21:4 人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。

 そして3章12節最後の《書きつけよう》というのは、21章6-7節の保証を言っているのでしょう。

21:6 そして、わたしに仰せられた、「事はすでに成った。わたしは、アルパでありオメガである。初めであり終りである。かわいている者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう。
21:7 勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐであろう。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。

 また、21章8節にある第二の死へわたされない保証でもあるのでしょう。

21:8 しかし、おくびょうな者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である」

 このように教会の御使いへの手紙が大きく黙示録全体に関与していることを見てれば、ヨハネの黙示録3章10節《忍耐についてのわたしの言葉をあなたが守ったから、わたしも、地上に住む者たちをためすために、全世界に臨もうとしている試錬の時に、あなたを防ぎ守ろう。》この御言葉は、ヒラデルヒヤ教会の経験している試練のみならず、ヒラデルヒヤに限らずすべての教会の試練に対して、また、黙示録に記されている全世界に臨む大患難からイエス様は必ず教会を守ってくださるとの確信をより深めることができます。

〈今回の学び〉
1、イエス様はいつでも教会の前に門を開けておいてくださる
 ヨハネの黙示録3章8節 新改訳2017《あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。》

 どんな働き人でも、またどんな教会でも、イエス様と比べればその力は小さなものです。それに高ぶることなく、またそれを卑下することなく、持てる力、与えられた賜物、その機会をただ忠実に、精一杯果たすときに、また、果たそうとするときに、イエス様が、力と知恵をくださり、助けて下くださり、大きな力として用いてくださるということです。
 マタイによる福音書25章に出てくる財産を預けられたしもべたち、5タラントもうけた者も、2タラントもうけた者も主人の誉め言葉は同じでした。その忠実さがみられています。

2、イエス様は愛で勝利される
 イエス様は、迫害するユダヤ人に対しても愛をもって勝利されます。
 神の民であったのは、ただ、神さまの恵み、愛のおかげであった。実は、私たちも小さく力ない者だったのだ。その小さき者をも神さまは愛して、このイエス様をお送りくださったのだ。とユダヤ人たちを愛で導きその愛にひれ伏させるのです。
 ローマ人への手紙12章19節を読むと、イエス様は、復讐は私のすることだと言われます。

12:19 愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。

 そのイエス様が、まず、愛をもって勝利されている。私たちも、赦す心でイエス様の愛をもって勝利させてくださいと祈るものでありたいと教えられます。

3、イエス様は、忍耐する者を試練から守ってくださる
 ヨハネの黙示録3章10節《忍耐についてのわたしの言葉》は、「私の忍耐のことば」と訳せます。それは、イエス様がされた忍耐、イエス様がこの地上生活で経験し実践された忍耐です。
 この世のさまざまな忍耐を実際に経験されたイエス様のことばは、私たちに、①キリストの模範を示し、②キリストにある励ましを与え、③忍耐する私たちにイエス様が自らの経験を通して思いやってくださることを保証しています。そして、イエス様は自ら試練を受けられたがゆえに試練を受ける私たちを助けることがおできになります。

 そして、忠実に仕え、愛を実践し、忍耐する私たちの働きをイエス様は、喜んでくださり、助けて下さり、そして、イエス様は、その忠実な働きを用いて、伝道の機会としてくださいます。教会の前にそのための扉を開き続けてくださっています。

 最後に、ヨハネの黙示録3章7-8節を読みます。

3:7 ヒラデルヒヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『聖なる者、まことなる者、ダビデのかぎを持つ者、開けばだれにも閉じられることがなく、閉じればだれにも開かれることのない者が、次のように言われる。
3:8 わたしは、あなたのわざを知っている。見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたには少ししか力がなかったにもかかわらず、わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかったからである。

 私たちも忠実に務めましょう。

2024年2月17日
尚徳牧師の素直に読む【ヨハネの黙示録_9】
タイトル:「ヒラデルヒヤにある教会の御使に」
牧師:香川尚徳