ショートメッセージ【カインとアベル】

創世記4章
創世記3章では、神さまのおことばをそのまま受け入れることの大切さを教えられていました。しかし、アダムとエバは、神さまのおことばに従わず、また、そのことを人や何かのせいにして、自分の正当性を主張しました。そんな彼らは、神さまのさばきを受け、神さまの前に罪ある者となり、エデンの園を追放されます。4章は、彼らのその後について書かれています。

1、カインとアベル/信仰の大切さ
創世記4:1-2
4:1 人はその妻エバを知った。彼女はみごもり、カインを産んで言った、「わたしは主によって、ひとりの人を得た」。
4:2 彼女はまた、その弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。

エデンを追放された2人にも神さまは恵みを与えてくださるお方です。エバもそのことを分かっていました。「わたしは主によって、ひとりの人を得た」。と言っています。そして、自分たちの失敗から、神さまへの献げものについても子供たちに教えていたのでしょう。

創世記4:3-5
4:3 日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。
4:4 アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。
4:5 しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。

カインとアベルは、エデンの園の外で生まれました。神さまに罪あるアダムの息子として、その罪の性質を受け継いで生まれました。そのことは、新約聖書の中にも書かかれています。罪人という点では2人に違いはありません。違うのは献げものでした。
新約聖書では、カインとアベルのことを次のように書いています。
ヘブル人への手紙
11:4信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、信仰によって義なる者と認められた。神が、彼の供え物をよしとされたからである。彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている。

創世記4章に戻り、
創世記4:6-7では、
4:6 そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。
4:7 正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。

神さまはここで信仰について取り上げています。3章で学んだように神さまのおことばに「はい」と従い、自分を正当化しない。それが神さまに正しい事であり、それを信じるのが信仰だと言われているのでしょう。
しかし、カインは、治めなさいと言われた神さまのおことばに従わず、ねたみのこころで、弟アベルを殺してしまいます。そのあとの神さまへのことばがこの4章9節ですが、自分の献げものを受け入れない神さまが悪いのであって、自分は悪くないという自己主張と自分の正当化があらわされている言葉です。

創世記4:9
4:9主はカインに言われた、「弟アベルは、どこにいますか」。カインは答えた、「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」。

この箇所では、献げものの良し悪しの詳細ではなく、カインの信仰の足りなさについて強調されています。アダムの罪を受け継いだ人が、不信仰に落ちれば、そこにさらに罪を重ねることになるのだとの警告です。
そして残念ながら、私たちもこのアダムの罪を受け継いでいる1人なのです。自己主張と自分の正当化から避けられない人はいないでしょう。そして神さまのおことばという正しい基準、物差しがなければ、罪にますます傾いてしまいます。神さまのおことばを受け入れて従う信仰の大切さがここにあります。

2、カインの道/平和、平安のない世界
創世記4:14-15
4:14 あなたは、きょう、わたしを地のおもてから追放されました。わたしはあなたを離れて、地上の放浪者とならねばなりません。わたしを見付ける人はだれでもわたしを殺すでしょう」。
4:15 主はカインに言われた、「いや、そうではない。だれでもカインを殺す者は七倍の復讐を受けるでしょう」。そして主はカインを見付ける者が、だれも彼を打ち殺すことのないように、彼に一つのしるしをつけられた。

カインは、弟アベルを殺し、その死に対する責任を取ろうともしていません。彼は神さまへの怒りが治まらずに、神さまの罰が厳しいと不平を漏らします。そして絶望し、報復に誰かが自分を殺すことを心配し、不安を覚えているのです。

そんなカインをも神さまはあわれみ、彼を守る手段を取られます。神さまはどこまでも追い求めてくださる愛なるお方です。神さまは、カインが悔いて神さまに立ち返ることを願っておられるのです。
残念ながらカインは悔改めませんでしたが、神さまの保護は続きました。
16-17節では、放浪から、町に定住しています。神さまから離れた不安より、町を築きそこに住むことで解消したいとの思いがあったのだと思います。また、芸術や産業といった文化の芽生えがありました。目に見える世界を良くし、生活を少しでも心地よい楽しめるものにしようと熱心に取り組む姿があります。
しかしそこには、本当の平安はありません。カインの子孫レメクは、ふたり迎えます。私の骨の骨、肉の肉として、自分の分身として一体となるべき妻が1人ではなく2人いれば、そこには家庭の平和はありません。
また、23、24節の詩で、レメクのための復讐は77倍とあります。これは、自分を神さま以上の者として誇示して、自分の残忍さや不道徳を誇るものです。ここにも平和はないでしょう。
芸術や産業と言った文化そのものが悪いわけではありませんが、神さまなしの文化は、人々をますます混乱と罪に導くのです。うわべだけで、体裁を整え、平安、平和のない世界、これがカインの道なのです。
そして、今、私たちの周りを見れば、私たちを罪と混乱に導くカインの道がいかに広く、また網の目のように張り巡らされて、普及しているか、そして決して世の中が良くならない理由が、よくおわかりでしょう。

3、セツの誕生/信仰の人々
創世記4:25-26
4:25 アダムはまたその妻を知った。彼女は男の子を産み、その名をセツと名づけて言った、「カインがアベルを殺したので、神はアベルの代りに、ひとりの子をわたしに授けられました」。
4:26 セツにもまた男の子が生れた。彼はその名をエノスと名づけた。この時、人々は主の名を呼び始めた。

2人の息子を失ったアダムとエバは、自分たちが犯した神さまへの不従順、罪の重さ、その影響の大きさを知らされて、悲しみに覆われていたことでしょう。
しかし、神さまの恵みによって新しく与えられたいのちによって、アベルに代わって信仰の道に歩む家族の基礎を築く機会を与えられます。
アダムとエバは、自分たちの失敗から、神さまのことばに従うこと、そして自分の正当性を主張する代わりに、従えていない自分を認めて神さまに赦しを請うという信仰の基本的な姿勢をセツに教えていったでしょう。
セツという名の意味には、「基礎」、「柱」という意味があります。
《この時、人々は主の名を呼び始めた。》というのは、神さまへの礼拝が献げられるようになったということです。
カインの子孫レメクが、おごりたかぶって人を見下し、物欲にたよって歩む時に、神さまはこのように神さまのおことばに従い、歩む信仰の人々を起こし守られています。そしてそれは、神さまのご計画が完全に実現されるためであり、その時まで絶えることはありません。このセツの子孫から信仰の父と呼ばれるアブラハムも生まれてきます。

創世記4章は、今の世の状況と、そして神さまのおことばに従って生きる信仰の大切さを私たちによく教えています。世の中は混乱に満ち、悪い方向に進んでいます。それは罪の影響です。そのような中で、神さまのおことばを頼りに、従っていくとき、私たちはカインの道ではなく、神さまの正しい道を見出して踏みゆくことができます。そこに真の平安と喜びがあるのです。
自分を正当化し、自分の思いのままに、自分本位に神さまなしで歩む歩みなのか、神さまのおことばに従い、神さまのみ心を求め、神さま本位に神さまの思いに歩むあゆみか。この時も今も変わらず人の歩みは二つに一つ、どちらかしかありません。そしてその結果は大きく違ってきます。また本当の平安の中に置かれるか、いつも不安におびえるか、日頃の歩みも大きく違ってきます。
とはいえ、神さまのおことばになかなか従えない弱い私たちのために、神さまはイエス・キリストをこの世にお送りくださっています。自分の中にもアダムから受け継いだ罪があることを認めて、イエス・キリストの十字架での死が、そんな罪のための身代わりの死だと信じる者は、誰でも、罪のない神さまの子として、平安と喜びに満ちて歩ませていただくことができます。

2022年1月16日(日)

メッセンジャー:香川尚徳