ヨハネの黙示録_プロローグ(素直に読む)

【再臨】
聖書箇所:テサロニケ人への第一の手紙13-18章

 ヨハネの黙示録(以下、「黙示録」)を見ていく前に、今日は、テサロニケ人への第一の手紙(以下、「第一テサロニケ」)から“再臨”についてともに見ていきたいと思います。
 理由は、黙示録には、“再臨”、その中で、“空中再臨(携挙)”については、具体的に触れられていません。

 黙示録を学ぶ、大きな1つの理由としては、イエス・キリストを信じる私たちが、これからどこへ行くのかということと、これから私たちに起こることを知るということでしょう。
 なぜなら、聖書の中で、私たちがこれからどこへ行くのかということについて、まとめて記されているのが黙示録だけだからです。それ以外の書簡では、部分的に点在しているだけです。

 しかしながら、黙示録についても、私たちがこれから行こうとしているところはどこなのか、その前にどのようなことが起こるのか、信仰者を、神さまはどのように導こうとして下さっているのか、ということに関して、すべてが明確にされているわけではありません。というより、あえて、神さまによって、全体像がぼかされていると感じます。

 そうだとすれば、神さまが、そこまで知る必要がないとされているところまでをも探り出す必要はなく、また、これから起こる出来事の絶対的な正解を導き出すということが、黙示録を学ぶ目的ではないということになります。
 しかし私たちは、しばしば、目的をできるだけ具体的に知りたい、正解をいただいて安心したい、特に日本人、また、ここにおられる私を含めた私たちの世代はそうかもしれません。受験にパスするため、テストをクリアするための正解を求めるように学校で教えられてきました。

 黙示録に戻りますが、黙示録の、これから起こる出来事については、全体像がぼかされているがゆえに、その理解は、人によってさまざまであり、いくつもの説があります。また、そのそれぞれの説を明らかに正しい、絶対に間違っているという根拠もないのです。
 絶対的な正解が欲しい私たちと全体像がぼかされているこれからの出来事の間に立つことで、ギャップが生じモヤモヤが存在するのです。

 そのような中にあっても、黙示録が書かれて1900年以上経った時代の信仰者として、私たちが知っておくこととして、必要な大枠の全体像を理解し、私たちがどこに行くのか、その前に何が起きるのか、信仰者がこれから行こうとしている目的地を知り、その上で喜びと平安を頂いて歩めれば、それは幸いであり感謝です。

 そこで、まず今日は、黙示録で明確に触れられていない空中再臨(携挙)について、第一テサロニケから見ていきます。そして、再臨を軸として、現状の私自身の聖書理解からの終末の出来事の全体像をお示しいたします。
 もちろん、これが絶対正解というものではありませんが、これを軸として、これに照らしながら、黙示録を学んでいくことで、各自の理解が深まり、少しでもモヤモヤの部分が少なくなればと願っています。

 テサロニケの教会は、パウロの第二次伝道旅行の途中で、建てられた教会です。彼らは健全な信仰の歩みをしていたのですが、主の再臨についての考えには、間違いがありました。
 彼らの中には、死んでしまったものは、主の再臨に与れないと思い、死者のために嘆き、また、主イエス・キリストが、すぐにも再来すると思い込み、働かなくなったものもいました。パウロは、それらを正すことを目的としてこの手紙を書きました。

 本日の箇所、第一テサロニケ4章13-18節において、パウロは、終わりの日を待たずに先に死んでしまった信仰者は、「実際どうなるのか?」という、希望を見失いそうな信仰者の疑問に答えています。終わりの日が来るまでに死んだとしても、それで魂が滅びるわけではない。それどころか、その時まで残っている者よりも、死んだ人の方が優先的に引き挙げられるのだと、慰めを与えるために、パウロは、神さまから示されたキリストの空中再臨(携挙)について触れています。

 マタイによる福音書24章3-44節のイエス様による預言には、空中再臨のことについては触れられていません。人々が通常の生活をしている時、突然終わりの日が来て(マタイ24章30-31節)、《人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。》と言われています。
 これは空中再臨ではなく、イエス様が昇天された時に語られた天使の言葉から、イエスさまは、人々の目に見える形で雲に乗って、オリブ山に来られると言われています(使徒1:11)ので、地上再臨を指していると考えて良いでしょう。イエス様は、それは患難のあと(マタイ24:29)だと言われています。

 第一テサロニケ5章1-11節を読んで、この箇所から教えられることを見て終わりにします。

5:1 兄弟たちよ。その時期と場合とについては、書きおくる必要はない。
5:2 あなたがた自身がよく知っているとおり、主の日は盗人が夜くるように来る。
5:3 人々が平和だ無事だと言っているその矢先に、ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むように、突如として滅びが彼らをおそって来る。そして、それからのがれることは決してできない。
5:4 しかし兄弟たちよ。あなたがたは暗やみの中にいないのだから、その日が、盗人のようにあなたがたを不意に襲うことはないであろう。
5:5 あなたがたはみな光の子であり、昼の子なのである。わたしたちは、夜の者でもやみの者でもない。
5:6 だから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして慎んでいよう。
5:7 眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うのである。
5:8 しかし、わたしたちは昼の者なのだから、信仰と愛との胸当を身につけ、救の望みのかぶとをかぶって、慎んでいよう。
5:9 神は、わたしたちを怒りにあわせるように定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによって救を得るように定められたのである。
5:10 キリストがわたしたちのために死なれたのは、さめていても眠っていても、わたしたちが主と共に生きるためである。
5:11 だから、あなたがたは、今しているように、互に慰め合い、相互の徳を高めなさい。

1、私たちの主が来られる(=空中再臨=携挙)ことは、盗人が夜来るようなもの。静かに、突然、思いもよらず、不意に、すばやくやってくるということ。

 先にマタイによる福音書24章3-5節を読みます。

24:3 またオリブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとにきて言った、「どうぞお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。あなたがまたおいでになる時や、世の終りには、どんな前兆がありますか」。
24:4 そこでイエスは答えて言われた、「人に惑わされないように気をつけなさい。
24:5 多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。

 ここでは、前兆について説明しています。
 ここから、主の地上再臨と空中再臨(携挙)は別のものとしてとらえることを教えられます。

マタイ24:13
しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。

第一テサロニケ5:9
神は、わたしたちを怒りにあわせるように定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによって救を得るように定められたのである。

 ここにも明らかに違いがあります。

2、しかし、その空中再臨(携挙)も、私たちクリスチャンにとっては不意ではありません。なぜなら、私たちは暗やみにおらず、光の子で、昼の子だからです。

3、ここで問われているのは、私たちが、主の来られることをいつも待ち望んでいるか、期待しているかということです。そうであれば、私たちは、光の子、昼の子です。

第一テサロニケ5:9-11
5:9 神は、わたしたちを怒りにあわせるように定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによって救を得るように定められたのである。
5:10 キリストがわたしたちのために死なれたのは、さめていても眠っていても、わたしたちが主と共に生きるためである。
5:11 だから、あなたがたは、今しているように、互に慰め合い、相互の徳を高めなさい。

 私たちは、主イエス・キリストにあるという一点だけで、御国に迎え入れて下さる。
 その始めの階段を上らせて下さる=携挙の保証があります。その主なるイエス様の憐れみを拠り所にして、今を歩みたいと教えられます。

 死んでも必ず、イエス様のように復活して、また、決して神さまの怒りの現れである患難期を通ることなく、いつまでも主とともにいることができます。それが、もうすでに始まっています。私たちはそれに向かっているのです。

 その約束をいただいている幸いをいつも覚えて、空中で主とお会いできる日を期待しつつ、たとえこの世における患難があっても、慰め合って歩む信仰者でありたいと教えられます。

 いつも待ち望んでいるか、期待しているか?
 終末の出来事を知る理由の1つはそこにあるのです。これからの黙示録の学びにおいても、常に自分に問いかけながら学びたい思います。
 ただ、イエス・キリストにあるという一点のみ、ただそれだけ、その幸いを覚えて、「いつも待ち望んでいるか、期待しているか?」を確認しましょう。

ヨハネによる福音書14章1-3節
14:1 「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。
14:2 わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。
14:3 そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。

2023年6月2日
尚徳牧師の素直に読む【ヨハネの黙示録】
タイトル:「プロローグ」
牧師:香川尚徳