メッセージ【祭司ザカリヤと妻エリサベツ】
ルカによる福音書1章5-25節
(私の人生を導くものは)
1、祭司ザカリヤと妻エリサベツ
2、ザカリヤへの神の計画
3、エリサベツの応答から
1、祭司ザカリヤと妻エリサベツ
ルカによる福音書1章5-6節を読みます。
1:5 ユダヤの王ヘロデの世に、アビヤの組の祭司で名をザカリヤという者がいた。その妻はアロン家の娘のひとりで、名をエリサベツといった。
1:6 ふたりとも神のみまえに正しい人であって、主の戒めと定めとを、みな落度なく行っていた。
いま、お読みしたように、ザカリヤは、神さまに仕える祭司であり、また神さまの御前に正しい人であったと書かれています。
祭司とは、神さまと人の間をとりなす仕事で、律法に厳格であり、また、一貫した働きや継続した取組み、高い人格が要求されます。なぜなら、祭司が神さまの前に聖さを保ち、人のために変わらず“いけにえ”をささげることが出来なくなるとしたら、人々の罪は赦されないことになります。
祭司としての不信仰な態度や倫理観のない失敗は、旧約聖書の中にも多く出てきますが、多くの場合、いのちを奪われるほどの責任を負うことになりました。そのくらい、祭司の仕事は神さまの前にも人の前にも重責であると言えます。
さて、ザカリヤに対する聖書の評価として《神のみまえに正しい人》という表現は、興味深い箇所であると思います。これは、人の前にではなく、神の前に正しいということを強調することばであるのでしょう。それは当時で言うならば、祭司の中でも最高峰に神の前に正しい人と言い換えても良いと思います。
ルカによる福音書1章9節には、
1:9 祭司職の慣例に従ってくじを引いたところ、主の聖所にはいって香をたくことになった。
と書かれていて、“くじ”は、神さまにそのように選ばれるところからもわかります。
《くじを引いた》と聞きますと、現在の私たちには、ギャンブルや偶然だけのように思えるのではないでしょうか。しかし、当時の人たちにとってはそうではありませんでした。“くじ”は神聖なものを選ぶ基準であったのです。イエス様の決めた役職である使徒も欠員が出た時に“くじ”によって人選をしました。神さまの導きを求める者にとって、偶然などはありえないからです。
この後、「2、ザカリヤへの神の計画」で、見ていきますが、ザカリヤは《神のみまえに正しい人》であったからこそ、“主の御使”がやってきて、特別な恵みを与えられる人となったのでしょう。
このルカによる福音書は、ルカによって書かれました。そして宛先は、テオピロという人でした。このテオピロは、伝承によればローマの高官であったと言われます。
当時、ローマ人は、地中海沿岸の広い地域を支配していた人たちです。そして、地域に住む人々の様々な宗教や思想を容認しつつ、実質的な利権(経済的な利益や政治的な影響力)を得ることに力を置きました。
ですから、ローマ帝国の支配者たちは、具体的な事実や出来事、また根拠などに価値観を置くのです。何かよくわからない根拠の話には耳を傾けようとはしません。そのような文化にいたルカは、イエス・キリストの生涯をなるべく綿密に調べ、そして順序立てて、しかも、一つひとつの出来事や行動がなぜ起こったのかも詳しく書いていきました。
さて、ルカによる福音書の冒頭のザカリヤの記事は、神さまに選ばれた祭司として素晴らしい素質があり、神さまのご計画に与かれる人物である。ということです。もう一方で、ザカリヤを含めた当時の祭司たちの神さまへの信頼感についても厳しく言及されている箇所と言えるでしょう。
2、ザカリヤへの神の計画
ルカによる福音書1章7節を読みます。
1:7 ところが、エリサベツは不妊の女であったため、彼らには子がなく、そしてふたりともすでに年老いていた。
この《ところが》という言葉から、6節に書かれていたように、ザカリヤが神さまの前に正しく、命令と掟を守っていた人物であるにもかかわらず、子どもが与えられなかったことを示しています。もちろん、聖書を読んだことがある人なら、この後の神さまの恵みを知っていますから安易に考えるのですが、この時のこの夫婦にとってはどうでしょうか。
祭司職の血筋のザカリヤに子どもが与えられていなかったのです。祭司職の家系ですから、祭司職を担う息子を願っていたはずです。
この箇所を読むとき、遠い昔話のように読むのではなく、ザカリヤやエリサベツの気持ちになって考えながら読むことが大切です。
私たちは、人の評価や物事をかなり短絡的に考えてしまうものなのです。何とも言えない状況の彼らに寄り添う時、私たちは、私たちの隣人に対して自分勝手な解釈や評価などできなくなるのではないでしょうか。私たちは、隣人に評価をするのではなくて、黙って祈る時となるのではないでしょうか。
さて、このザカリヤとエリサベツに待っていた神さまのご計画について1章13節に書かれています。
1:13 そこで御使が彼に言った、「恐れるな、ザカリヤよ、あなたの祈が聞きいれられたのだ。あなたの妻エリサベツは男の子を産むであろう。その子をヨハネと名づけなさい。
この与えられる子どもは、この後の節に書かれているように、“バプテスマのヨハネ”として多くの人を主イエス様に導く働きをすることになります。
神さまの前に、本当に正しく生きる者にとっては、この世にある幸せとは遠いところに置かれることがあると思います。
後に、パウロという人が、テモテへの第2の手紙3章12節で、
3:12 いったい、キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は、みな、迫害を受ける。
と言うように、神さまに愛され選ばれるがゆえに苦しみを伴うこともある。ということでしょう。
ザカリヤは晩年になって子どもが与えられるという恵みの啓示を御使いから受けることができました。
それに対して、ザカリヤはその恵みの啓示に対してどのように答えたでしょうか。
ルカによる福音書1章18節を読みます。
1:18 するとザカリヤは御使に言った、「どうしてそんな事が、わたしにわかるでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」。
ザカリヤは、御使いのことばを軽視したようです。1章12節で、ザカリヤは
1:12 ザカリヤはこれを見て、おじ惑い、恐怖の念に襲われた。
と書かれています。私は御使いに会ったことがないのでわかりませんが、その場所が神殿の聖所であることから、聖い神さまか、もしくはそれに準じるものであるならば恐ろしさを感じるのは普通のことです。
旧約聖書に登場するイザヤという預言者は、聖なるセラピムを見たとき、イザヤ書6章5節で、
6:5 その時わたしは言った、「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから」。
と言いました。ザカリヤも同様であったことでしょう。しかし、神さまの御前にいることが分かりながらザカリヤは、神さまからのお言葉をいただいたにもかかわらず、それを信じませんでした。
このことから何が教えられるでしょうか。私たちがもし、ザカリヤと同じように神さまにお会いしたとしたらどのように答えるでしょうか。私たちもザカリヤと同じように答えるのではないでしょうか。
年寄りになって子どもが与えられることはありえないと。
ザカリヤはその年、大きな仕事を示されるほど正しい人でありましたし、主のすべての命令と掟を守って行っていた人であることを見ました。しかし、ザカリヤは、自分たちに子どもは与えられことはない。と思っていたこところに、御使いから《あなたの妻エリサベツは男の子を産むであろう。その子をヨハネと名づけなさい。》伝えられた時には、信じることができなかったのです。
ザカリヤの記事は、どれだけ正しい行動ができ、命令に聞き従い、掟を守ったとしても、必ずしも神さまに対する信仰が成熟しているとは限らないことを示していると思います。
律法を守ることはすばらしいことですが、しかし、その律法を守り切ることができません。
それは私たちが、法律を知っていてもすべて守れないことと同じです。ここで、私たちは、自分が聖書に書かれてある通り、神さまに従って生きることができないことを思い知って、神さまの御前に憐れみをすがるようになります。そして、少しずつ、神さまに従って生きられるように変えてもらうことが信仰者の究極的な目的です。
ザカリヤは、律法を守ってはいましたが、それによって神さまに憐れみを請う生き方にまでは、達していなかったのでしょう。そのことにより、彼は、一時的に口がきけなくなりました。これは、まるで罰のように感じられる方がいらっしゃると思いますが、そうではないと思います。
口をきけなくなることを成就することで、また、後に御使いの言ったとおりになることによって、ザカリヤが、神さまのご計画を信じるようになるめだったのではないでしょうか。
ここで考察が必要です。ザカリヤの記事を見る時、正しい人であり、信仰者でもある半面、当時の祭司たちの信仰は、必ずしも整ったものではなかったことも教えられるのです。
これは、その職制による信仰が良いとは限らない。ということを教えてくださっているのではないでしょうか。
クリスチャンと自認し、礼拝に出席し、また、献金をし、奉仕をしている人が、神さまから見ると正しい信仰者としては見られない。という一面も教えているような気がします。
どのような事があっても、神さまに感謝する。そして、神さまを信じて、神さまを信頼しきって、暮らしを営んでいかなければ、神さまは喜んでくださらないことを教えてくださっているのではないでしょうか。
ヘブル人への手紙11章6節を読みます。
11:6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自分を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。
3、エリサベツの応答から
ルカによる福音書1章24-25節を読みます。
1:24 そののち、妻エリサベツはみごもり、五か月のあいだ引きこもっていたが、
1:25 「主は、今わたしを心にかけてくださって、人々の間からわたしの恥を取り除くために、こうしてくださいました」と言った。
エリサベツは神さまの導きによってお腹に子どもが与えられました。
1章25節の《恥を取り除く》という表現は、当時、一般的に子ども、特に男の子が生まれなかったのは恥とされていました。子を産んでいないということは世継ぎ・子孫を残せないということになります。
世間の目と、自分自身でどうすることもできなかったエリサベツ。女性であるがゆえに子どもがいなかったことがどれほど苦しかったのかということと、その時代、祭司として家督を継ぐ子どもが与えられて、これで家が守られるという重い意味があると思います。
エリサベツにとって、このことを通して、神さまのご計画に感謝をする時となりました。
このことは当然、ものが言えなくなった夫・ザカリヤから聞いていたと思われますので、ますます主を褒め称える時となったことでしょう。ザカリヤ自身も、このことを通して神さまの偉大さやご計画を知り感謝をしていたに違いありません。
私たちの人生には、ザカリヤやエリサベツに子どもがなかなか与えられなかった苦しみのように、時として、なぜこのようなことになるのかと思うことがあります。
その時、私たちはどのように考えるべきでしょうか。ただ苦しくてよくわからないから、ただ、黙って耐えるだけなのでしょうか。しかし、そうではなく、私たちの人生にはそれぞれに、その人だけの神さまからのご計画があることを教えられるのではないでしょうか。
神さまが、許された、人と違う苦しみ、今ある現状は、神さまからのあなただけの特別な歩みであることを覚えてほしいと思います。もちろん、現在、苦しみの中におられる方に対して、中途半端な励ましをしようと言っているのではありません。その苦しみをわかるのはあなただけなのですから。
しかし、それらは、すべて神さまの御手の中にあることを覚えるとき、信仰によって見えてくる状況もあるのではないでしょうか。あまり、目の前にあることに囚われるのではなく、いつもそばにいて見守ってくださる神さまへの信仰によって、自分の置かれた状況を引いてみることによって、考え方や感じ方が変わると思います。また、過去の守られたことを思い出すと神さまの導きがあったはずです。その過去にあった導きを思い出しながら、今も将来も、備えられた導きに頼って歩みましょう。
その時、本当の意味で、私たちの置かれている現状やこれからの歩みが見えてくるのではないでしょうか。《「主は、今わたしを心にかけてくださって、人々の間からわたしの恥を取り除くために、こうしてくださいました」》(1章25節)と言って主を褒め称えたエリサベツのように。
2024年12月22日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:香川盛治
Brooklyn Museum – The Vision of Zacharias (Vision de Zacharie) – James Tissot
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