「くだらない人生」

 皆さん、こんにちは。「聖書からのワンポイント」の清水浩治です。今日のお話のタイトルは、「くだらない人生」であります。

 このお話をするに際して、私は一人の方を思い出していました。その方とお会いしたのは、彼女が80歳に近い頃でした。買い物に行ったり、グループで旅行に行ったりもしました。その方が亡くなられる時には、病室で立ち会いました。
 人生の終わりを迎える少し前、ベッドに横たわっていた彼女は、ご自身の人生を振り返って、力なく、たどたどしい言葉で次のように言ったのでした。
「くだらない人生でした。」

 とても静かな方で、ご自分の意見を言うことはまずありませんでしたし、何かを主張することもありませんでした。そのような方の口をついて出た言葉ゆえに、この言葉は驚きと同時に、私の心に重く響きました。

 「くだらない」、という言葉の起源は諸説あるようですが、動詞の「下る」に打消しの助動詞「ぬ」がついて「下らぬ」、「ない」がつくと「くだらない」となります。もともと「下る」には「通じる」の意味があり、「ない」で否定するので、「意味がない」、「筋が通らない」の意味を持ちます。

 彼女の言葉が、自分に当てはまる、と思ったことがないわけではありません。そう思う時は、何か大きな課題に直面していた時か、持っていた人生の目標がもう叶わない、と思った時なのかもしれません。自分が若い時に人生の先は長いと思っていましたが、今振り返ると、あっという間に今いるところに至ってしまったというのが実感です。そして、もし自分という個の存在がこの地上で生きている間だけの存在なら、自分が満足するかたちでこの地上で成果を挙げられなければ、自分は人生の敗北者、と評価せざるを得ないでしょう。つまり、自分自身も「くだらない人生であった」と言うことになってしまうのです。

 一年以上前でしたが、伊藤あさこさんの言葉を紹介したことがあります。一年の目標を聞かれた彼女が「今年も生きる」が目標です、と言いました。生きるということ自体、ある意味、大変さを伴いますから、私が信じる基本線は、人生を生きること自体に意味があり、くだらない人生とはならないということであります。「くだらない人生でした」と言った方は、91歳で亡くなられましたが、彼女は立派に人生を生き抜いた人だったのです。

 これに関連して考えたいことがありますが、それは私たちが人生を生きる中での導き手の存在についてであります。詩篇で最も有名な23篇の最初で、ダビデは「主は私の羊飼い、私は乏しいことがありません」と比喩を使って告白しています。神が私の導き手であり、自分の必要を満たしてくれる、という告白です。神を信じることは、人生の導き手を見出すことを意味します。導き手がいるので、私たちはその導きに従っていけばよいのです。

 例えとしてお話しできることに、私が経験した二つの海外旅行があります。最初に行った旅行は、添乗員さんのいるパック旅行でした。旅行前に日程表が届き、旅行中は、一日の終わりにメモ書きが渡されて、朝食がどこで何時であるとか、ホテルを出発する時間が何時であるとかが書いてありました。バスはホテル横付けで待ってくれていました。ところが、自分ですべて旅行の計画を組み立てる個人旅行では、日本からの飛行機で現地に降り立ってからは、すべて自分で計画を立て、タクシーを使い、バスを予約し、電車の切符を駅で購入し、オプショナルツアーに行こうとすると、泊まる宿の予約をネット上でしなければなりませんでした。導き手のいない人生には辛さ、大変さが伴うのです。

 かつてイスラエルの民は、旧約聖書の時代、バビロン捕囚と言ってバビロンの地に連れていかれました。しかし、囚われの身となってから70年後、彼らに対する神の計画として、導きと祝福の言葉が語られます。「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。―― 主の御告げ。―― それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミヤ書29章)この言葉を、私たちの人生にも当てはめ、適用して、神の自分に対する計画を通して神は平安を与えてくださり、将来と希望を与えてくださる、と信じたいものです。私たちの人生を意義あるものとするのは、神が私たちに用意してくださった計画に従い、歩むことなのです。

 お時間になりました。それでは、また来月のこの時間、「聖書からのワンポイント」でお会いしましょう。お聴きいただきありがとうございます。

2022.7.8
ラジオ・ティーチング・ミニストリー「聖書からのワンポイント」
タイトル「くだらない人生」
牧師:清水浩治

追記
 人が自分の人生を意味がなかったと感じる一つの理由に、他者との比較で自分を見て、評価してしまうことがあるのではないでしょうか。往々にして、人は他者にあるもので自分にないもの、他人が経験していることで自分は経験できなかったことについて、考えてしまうのです。どうしても、隣の芝生はより青く見えてしまうわけです。